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SBTi ネットゼロ基準 V2 の変更点 — 既認定企業が見直すべき目標と中和の扱い

SBTi ネットゼロ基準 V2 の変更点 — 既認定企業が見直すべき目標と中和の扱い

SBTi のネットゼロ基準 V2 は、目標水準を引き上げた改定ではない。「何を目標の対象とし、何を残余排出として中和するか」の境界線を引き直した改定である。(本稿の情報は2026年09月時点)既認定企業が V1 の目標をそのまま延長すると、削減努力の中身は同じでも制度上の評価だけが下がる。再認定は事務作業ではない。投資配分の意思決定そのものだ。

V2 は 2025年3月公表の「Corporate Net-Zero Standard Version 2 — Draft for Consultation」を起点に、パブリックコンサルテーションとパイロットテストを経て、2026年6月11日に最終版(Version 2.0)として正式公表された。V2.0 での目標提出は 2027年第1四半期に検証ポータルが開く予定で、2028年2月1日以降に提出される新規目標および更新目標は V2 準拠が必須となる。それまでの間は V1.3.1 との併存期間が置かれ、既認定企業は自社の目標有効期限に応じて移行時期を選ぶことになる。つまり議論の対象はもはや「何が決まるか」ではなく、「決まった内容に対して、いつ、どの順で資本を動かすか」である。

V2 は「厳格化」ではなく「境界の再定義」である

多くの解説は V2 を「基準が厳しくなった」と要約する。既認定企業の実務にとって、この要約は誤誘導に近い。削減率の骨格は V1 から維持されている。スコープ1・2 の近接目標に適用される 1.5℃ 整合の最低年率 4.2%(絶対量削減アプローチ)も、長期目標としてバリューチェーン排出の 90%(SBTi 文書では業種により 90〜95%)を削減し残余を中和するという構図も動いていない。なお 4.2% はスコープ1・2 の値であり、スコープ3 にはこれまで別水準が適用されてきた。動いたのは分子ではなく分母だ。対象範囲(バウンダリ)の定義と、達成に使える手段の許容度が変わった。同じトン数を削減しても、対象定義が変われば達成率は動く。

最終版で確定した主要な変更は、大きく5つのレイヤーに整理できる。ひとつはスコープ1 と スコープ2 の目標分離で、V1 では両者を合算して一本の目標を設定できたが、V2 では原則としてそれぞれ独立した目標を設定・報告することが求められる。自家消費型再エネの導入や証書調達によるスコープ2 の削減で、スコープ1 の未達を覆い隠す設計が成立しなくなるという意味であり、燃料転換・熱源転換の遅れが目標上そのまま露出する。

ふたつめはスコープ3 の対象化ルールで、排出量の 67%(近接目標)・90%(長期目標)を機械的に覆えという網羅率ベースの発想から、排出寄与度と企業の影響力(influence)を軸にした重要性ベースへ比重が移った。三つめは企業規模・地域による適用の階層化で、新興国企業や中堅企業に対して要求水準を段階化する構造が採られた。四つめは再生可能エネルギー調達と市場性証書(EAC・非バンドル証書)の扱いで、電力の時間的・地理的マッチングに関する要求が V1 より明確化された。五つめが残余排出の中和(neutralization)と BVCM(バリューチェーン外の緩和)の切り分けであり、ここに最終版で新たに「ongoing emissions」(目標年に至るまで継続して発生している排出)に対するバリューチェーン外気候資金(climate finance)の枠組みが加わった。あわせて報告・保証(assurance)要件も明確化され、目標進捗の報告頻度と、どのデータにどの水準の第三者保証を付すかが基準本文で規定された。

既認定企業への金銭的インパクトは、圧倒的にスコープ3 の対象化と電力証書の扱いに集中する。中和の論点は 2050 年の話に見えるが、実際に効くのは今の資本配分である。理由は後述する。

V2 対応をコンプライアンス費用として社内で位置づけると、予算はまず削られる。制度接続の資産形成として位置づけたほうが実態に合う。SBTi の目標再設定で整備するデータ — カテゴリ別の一次データ比率、サプライヤ単位の排出原単位、製品ライフサイクルの使用段階排出 — は、CBAM の実排出報告、GX-ETS の排出量報告、SSBJ 基準に基づく開示のいずれとも母集団が重なる。SBTi・GX-ETS・CBAM・SSBJ の4つに対して、同じデータ基盤を4回作るか、1回作って4回使うかの差である。とりわけ V2 で明確化された保証要件は、SSBJ 開示や CBAM 報告で求められる検証水準と設計を揃えられる領域であり、別々に外部委託すれば費用が単純に積み上がる。

表1: V1 → V2 の主要変更点と既認定企業への業務影響度

変更レイヤー V1 の扱い V2.0(最終版)での扱い 既認定企業への業務影響度 対応の緊急度
スコープ1・2 の目標構造 合算した一本の目標を許容 スコープ1 と スコープ2 で目標を分離 中〜大(燃料転換の遅れが目標上露出)
スコープ3 の対象化 総排出の 67%(近接)/ 90%(長期)を網羅 寄与度・影響力ベースの重点選定へ比重移動 大(調達契約・サプライヤ管理の再設計)
企業規模・地域の階層化 一律(中小企業ルートのみ別枠) 規模・所在地域で要求を段階化 小〜中(新興国子会社の扱いで変動)
再エネ調達・市場性証書 市場基準での証書利用を広く許容 時間的・地理的マッチングの要求を明確化 中〜大(証書中心の企業ほど大)
中和(除去)の要件 目標年の残余排出に対する恒久除去 同方針を維持・明確化 中(長期オフテイク契約の要否) 中(ただし価格リスクは今)
ongoing emissions への気候資金 規定なし バリューチェーン外気候資金の枠組みを新設(目標達成にはカウントしない) 小〜中(支出の位置づけ整理が必要)
BVCM 推奨 推奨のまま。達成要件ではないと明確化 小(支出の正当化が難しくなる)
報告・保証要件 進捗報告中心 報告頻度と保証水準を基準本文で明確化 中(検証費用と社内体制に影響) 中〜高

表1のうち、経営会議に持ち込むべきはスコープ1・2 の分離、スコープ3 の対象化、電力証書の3行である。いずれも翌年度の調達・設備予算に直接跳ね返る。逆に BVCM は、達成要件でない以上、支出を止めても認定は維持される。ここで予算を守ろうとすると議論の焦点がぼやける。リスクは、再認定のタイミングに合わせて全レイヤーを同時に見直そうとして、影響の小さい階層化や BVCM の議論に時間を吸われることだ。移行の実務スケジュールは、2028年2月1日という V2 準拠の必須化時期から逆算して引く。目標の提出・検証にかかる期間を考えれば、2027年内には再設定作業を終えている必要があり、その前提となるスコープ3 の重要性評価と一次データ整備は 2026年度中に着手しておくのが現実的な線になる。

スコープ3 の対象再定義が調達戦略に与える圧力

網羅率ベースの一律目標には、実務上ひとつの副作用があった。67% という数字を満たすことが目的化し、削減余地の乏しいカテゴリまで機械的に測定対象に入れる動きを生んだ。多くの日本企業が採用してきたサプライヤアンケート型のスコープ3 管理は、この網羅率を埋めるための道具である。V2 の下では、この手法の投下工数あたりの制度的リターンが落ちる。アンケート回収率を積み上げても、それが影響力の高いカテゴリの実排出削減につながらなければ評価されにくくなるからだ。

比重が移る先は、カテゴリ1(購入した製品・サービス)とカテゴリ11(販売した製品の使用)である。この2つを合計するとスコープ3 の 60〜90% 程度を占め、製造業では 70〜85% に収まることが多い。ここに対して、目標の性格が「エンゲージメント目標」(サプライヤの何%に SBT を設定させる)から「実排出削減目標」寄りに評価されるとどうなるか。答えは調達契約である。サプライヤに排出削減を求める手段として、アンケートと表彰制度では実排出は動かない。動くのは、契約に排出原単位の条件や低炭素材料の使用義務を書き込んだときだ。

そして条項化した瞬間、コストは取引価格に転嫁される。水素還元・電炉由来のグリーン鋼材や低炭素アルミには通常材を上回るプレミアムが生じているが、その水準は製法(水素還元/電炉/マスバランス方式)と契約形態によって大きく異なり、単一のレンジで語れるものではない。そこで感応度分析として置いてみる。年間 10 万トンの鋼材を調達する企業が、その 20% をグリーン鋼材に切り替え、鋼材単価を 12 万円/t、プレミアムを仮に 25% と置けば、追加コストは 6 億円/年になる(試算:10万t × 20% × 12万円/t × 25%)。この 6 億円を誰が負担するかは、サプライヤとの交渉であると同時に、社内の予算配分の問題だ。

表2: グリーン材切り替えコストの感応度(年間鋼材調達 10 万トン・単価 12 万円/t の試算)

切替比率 \ プレミアム 15% 25% 35%
10% 1.8 億円 3.0 億円 4.2 億円
20% 3.6 億円 6.0 億円 8.4 億円
30% 5.4 億円 9.0 億円 12.6 億円

表2が示すのは、金額を左右する主変数がプレミアム水準ではなく切替比率だという点である。プレミアムが 15% から 35% へ倍以上に振れても、切替比率 20% なら 3.6 億円から 8.4 億円の幅に収まる。一方で切替比率を 10% から 30% へ広げると、同じプレミアム 25% の下で 3.0 億円が 9.0 億円になる。つまり交渉の焦点は単価ではなく、どの品目にどこまで適用義務を書き込むかにある。全品目一律の低炭素材料指定は、この表の右下に自社を置く判断に等しい。

CFO への説明でつまずくのは、このコストを一括りにするからである。分解すると性質が違う。低炭素材料への切り替えや自家消費型再エネへの投資は「削減投資」で、将来のエネルギーコスト低減、CBAM の証書購入回避、GX-ETS 下での排出枠購入回避というリターンを持つ。一方、算定手法の高度化、サプライヤデータ収集システム、第三者検証費用は「制度適合コスト」で、それ自体はキャッシュフローを生まない。前者は投資回収年数で語れる。後者は語れない。両者を混ぜた予算要求は、CFO から見れば回収不能な費用の塊に見える。

表3: スコープ3 主要カテゴリ別 V2 対応の難度・コスト・調達影響(製造業モデル企業の推計)

カテゴリ スコープ3 に占める割合の目安 データ取得難度 制度適合コスト(年間・推計) 調達契約への影響 V2 での優先度
C1 購入した製品・サービス 40〜60% 高(一次データ化が必要) 3,000万〜1億円 大:原単位条項・低炭素材料指定 最優先
C11 販売製品の使用 20〜40%(機器・車両系) 中(使用シナリオ前提に依存) 1,000万〜3,000万円 中:製品設計・仕様変更に波及 最優先
C4 輸送・配送(上流) 3〜8% 500万〜1,500万円 中:物流契約の燃料条件
C2 資本財 3〜10% 中〜高 500万〜1,500万円 小:設備投資基準に反映
C6/C7 出張・通勤 1% 未満 100万円未満 なし

表3で判断が割れるのはカテゴリ11 である。データ取得難度は中程度だが、削減の実行手段が製品設計そのものに直結するため、リードタイムが最も長い。開発サイクルが5年の製品では、2030 年目標に間に合う設計変更の機会は現時点で既に限られている。着手できるのはその先の目標年に向けた世代である。逆に C6/C7 は、V1 時代に工数をかけて算定した企業が少なくないが、割合が 1% 未満である以上、V2 の重点化の下では投下工数がほぼ回収できない。ここを縮小して C1 の一次データ化に振り向けるのが、制度適合コストの合理的な組み替えだ。リスクは C1 側にある。一次データ化はサプライヤの協力が前提で、自社の交渉力が弱い調達品目では、コストをかけても精度が上がらない。パレート分析の一般則どおり、取引額上位の少数サプライヤで C1 排出の大半を押さえられるかを先に確認せず全社展開すると、費用だけが膨らむ。

中和・BVCM・気候資金の切り分けが意味するもの

V2 における中和は、目標年時点の残余排出に対する恒久的な除去(removal)に限定される。途上年次の排出をクレジットで埋め合わせるオフセットは、目標達成にカウントされない。この構図は V1 から維持されており、V2 は境界をより明示した。BVCM は「実施が推奨されるが、目標達成の要件ではない」という位置づけが最終版でも維持されている。

最終版で新たに整理されたのが、ongoing emissions — ネットゼロ到達までの移行期間に継続して発生する排出 — に対するバリューチェーン外気候資金の枠組みである。これは残余排出の中和とは別物で、企業が削減途上で排出し続けている分に対し、バリューチェーン外の緩和・除去へ資金を拠出することを推奨する仕組みだ。重要なのは、この拠出も目標達成にはカウントされないという点である。つまり V2 は、企業の気候関連支出を「目標達成に効くもの(自社削減と目標年の残余中和)」と「効かないが推奨されるもの(BVCM および ongoing emissions への気候資金)」に、これまでより明確に二分した。

この整理が企業の意思決定に与える影響は、しばしば誤読される。「クレジットは使えないのだから、今は買わなくてよい」という結論に飛ぶ企業が多い。正しくはこうだ。問いは「今クレジットを買うか」から「目標年に必要な除去量を、いつの価格で、どう確保するか」という長期調達(オフテイク)の問題に変わる。そして気候資金の枠組みが加わったことで、「達成にカウントされない支出をどう社内で正当化するか」という第二の問いが生じる。答えを用意しないまま推奨に従うと、財務説明のつかない支出が積み上がる。

除去系クレジットの供給は薄い。DAC(直接空気回収)、BECCS、風化促進、バイオ炭といった手法ごとに価格は大きく散らばり、公表される取引データもプラットフォーム別・案件別でばらつくが、概ね 100 米ドル/t 台後半から 600 米ドル/t 超までの幅に分布している。いずれにせよ自然由来のオフセットクレジット(数ドル〜数十ドル/t)とは桁が違う。年間排出 100 万トンの企業が 2050 年に総排出の 10% を残余排出として抱え、それを 200 米ドル/t で中和する場合の恒常的支出は約 30 億円/年になる(試算:残余 10万t = 100万t × 10%、10万t × 200米ドル/t = 2,000万米ドル、1米ドル=150円換算で約 30 億円)。為替前提は執筆時点の実勢と乖離しうるため、自社で再計算する際は当該時点のレートに置き換えてほしい。これは 2050 年に突然発生する費用ではない。長期オフテイク契約を結ぶなら、価格を固定する判断は今の数年で下すことになる。

だからこそ、残余排出量の見積りを早く出しておくことが後年の交渉力になる。総排出の 5〜10% という目安は業種によって大きくぶれる。プロセス排出を抱えるセメント・化学では 10% を超える可能性が高く、サービス業では 3% を切る。この数字がないまま「何かしている」ことを示すために BVCM クレジットを買うと、SBTi 上の達成にも寄与せず、財務説明にも耐えない支出になる。

表4: 中和 / 気候資金 / BVCM / オフセットの制度的位置づけ(V2.0 準拠)

区分 定義 SBTi 目標達成へのカウント 対象時期 想定価格帯(2026年) 財務・開示上の扱い
中和(neutralization) 目標年(多くは 2050 年)の残余排出に対する恒久除去 される(長期目標の要件) 目標年前後 100 米ドル/t 台後半〜600 米ドル/t 超(手法により大きな幅) 長期契約は前払い/コミットメントとして注記対象
ongoing emissions への気候資金 移行期間中の継続排出に対するバリューチェーン外の緩和・除去への資金拠出 されない(V2 で新設された推奨枠組み) 現在〜目標年 手法により幅(除去系を選べば中和と同水準) 費用計上。推奨対応として開示する余地
BVCM バリューチェーン外での追加的緩和 されない(推奨のみ) 現在〜 数ドル〜数十米ドル/t 費用計上。開示は任意
従来型オフセット 他者の排出回避・削減クレジット されない 現在 数ドル〜数十米ドル/t 費用計上。主張表現に法的リスク

表4から導かれる判断は明快だ。予算に制約があるなら、達成にカウントされない区分(BVCM・従来型オフセット・気候資金)への支出を抑え、除去系の長期オフテイク検討に振り向けるのが合理的である。いずれも達成要件でない以上、削っても認定は揺るがない。一方で除去系は、供給が薄く価格が上がる方向にあるため、待つことが値上がりリスクの引き受けになる。ただしリスクは対称ではない。DAC の価格は技術学習曲線とスケールアップ次第で 2030 年代に大きく下がる可能性があり、いま長期の固定価格契約を一括で結ぶことが最善とは限らない。少量の複数年契約でオプションを確保し、価格の下方硬直性が確認できた時点で数量を増やす段階的調達のほうが、多くの企業には現実的だ。なお気候資金への拠出を行う場合も、除去系オフテイクの試験的な小口契約という形をとれば、推奨への対応と将来の中和調達の学習を同時に進められる。

V2 対応データを収益側に転用する

ここまではコスト側の話である。V2 対応が費用でしか語れない企業と、収益に接続できる企業を分けるのは、整備するデータの設計思想だ。

カテゴリ1 の一次データ化とは、実質的に製品単位のカーボンフットプリント(CFP)算定基盤を作る作業に近い。SBTi の目標管理に必要なのは企業全体の合計値だが、その合計を積み上げる過程で製品別・工程別の排出原単位が手に入る。この粒度があると、自社製品を「同等機能の代替品より排出が低い」と定量的に示せる。逆に、企業全体の合計値だけを目標報告用に集計する設計にすると、製品単位の訴求には使えないデータが残る。同じ費用をかけて、片方は開示資料にしかならず、もう片方は見積書に添付できる。

需要側の変化がこれを収益に変える。自社が V2 の下でサプライヤに排出原単位の条件を書き込むのと同じことを、自社の顧客も自社に対して行う。カテゴリ1 の重点化が業界横断で進めば、低炭素であることは環境訴求ではなく入札の適格要件に近づく。このとき製品別 CFP を第三者検証付きで即座に提出できるかどうかが、受注の可否を分ける。V2 で保証要件が明確化されたことは、この点で追い風になる。自社の目標報告のために構築する検証体制は、そのまま顧客提出用データの信頼性を担保する装置として使えるからだ。グリーンプレミアムを価格に上乗せできるかは市場次第だが、要件を満たせずに候補から外れる損失は市場条件によらず確実に発生する。

もうひとつの転用先が公共調達と大型設備案件だ。低炭素材料の使用実績や算定根拠の提出を求める調達が増えるほど、既に検証済みのデータを持つ企業の入札コストは下がる。案件ごとに算定し直す企業との差は、価格ではなく応札スピードに出る。V2 対応の予算を「制度適合コスト」だけで積むと、この転用可能性は設計から漏れる。カテゴリ1 の一次データ化を製品別粒度で設計するか、企業合計の粒度で済ませるかは、同じ予算内で選べる分岐である。

課題・反論・代替視点

ここまでの議論には、いくつか前提の弱さがある。

最大の弱点は、基準本文が確定していても、その運用細目 — セクター別ガイダンス、検証機関の実務運用、既認定企業の個別ケースの扱い — がこれから固まる領域にあることだ。とりわけスコープ3 の「影響力」をどう評価し、どこまでの重点選定を検証機関が妥当と認めるかは、2027年の提出開始以降に事例が積み上がって初めて相場観が定まる。ドラフト段階の想定に合わせて調達契約を先行して書き換えた企業が、最終版の運用では過剰だったと判明する展開もありうる。ここでの防御策は、SBTi 固有の要件ではなく CBAM・GX-ETS・開示制度と共通する部分から着手することだ。共通部分は、運用細目がどう転んでも無駄にならない。

もうひとつの反論は、そもそも SBTi 認定の経済的価値に対するものである。認定を得ても製品価格に上乗せできる企業は限られ、認定と資本コストの関係を明確に示した実証結果も限られる。であれば、認定維持のために調達コストを 6 億円積み増す判断は、株主価値の観点から正当化しにくい。この批判は部分的に正しい。ただし認定の価値は上振れ(プレミアム獲得)ではなく下振れ回避にある。欧州の大手企業が調達方針で取引先に SBT 設定や排出削減目標を求める例は複数公表されており、認定を失うことは価格交渉力ではなく取引資格の問題になりうる。認定を「ブランド投資」と見るか「取引資格の維持費」と見るかで、投資判断の閾値は変わる。

ただしこの再反論にも逆風がある。EU では CSRD・CSDDD の適用範囲について、2025年に欧州委員会が提案した簡素化パッケージ(オムニバス)を通じた縮小・延期の見直しが進んだ。対象企業が絞られれば、サプライヤに対するデータ要求の裾野も狭まる。「欧州顧客からの要求が一方的に広がる」という前提は、2026年時点では自明ではない。日本の中堅サプライヤにとって、欧州規制起点の圧力は当初想定より弱まる方向に振れうる。

第三の視点として、V2 対応そのものを見送り、他の枠組みに移る選択も現実には存在する。日本では SBTi 認定を取得せず、GX リーグの自主目標と有価証券報告書のサステナビリティ開示で対応する企業も少なくない。輸出比率が低く、欧州顧客との取引が薄い企業にとって、SBTi の認定維持コストは合理性を欠く場合がある。V2 でスコープ1・2 の目標分離と保証要件が加わったことは、この判断を後押しする方向に働く。対応工数が増える以上、便益との釣り合いを問い直す企業は出る。認定を降りることは「後退」ではなく、制度接続先の選択の問題だ。ただし降りるなら、その理由を投資家に説明できる形で整理しておかないと、単なる目標未達として扱われる。

日本市場・日本企業への示唆

日本企業が V2 対応で直面する条件は、欧米企業とは3点で異なる。

第一に電力である。V2 で市場性証書の時間的・地理的マッチング要件が明確化されたことの影響は、欧米企業より日本企業のほうが大きい。日本の再エネ電力調達は非化石証書に依存する比率が高く、コーポレート PPA の普及は欧州に比べて遅れているからだ。加えてスコープ1・2 の目標分離により、スコープ2 の削減手段が制約されれば、その未達をスコープ1 側の余剰で相殺することもできなくなる。ここで制度の性格を正確に区別しておきたい。非化石証書は電力の非化石価値を切り出した証書、グリーン電力証書は再エネ発電の環境価値を証書化したもので、J-クレジットは省エネ・再エネ・森林吸収などによる排出削減量・吸収量のクレジットであり、再エネ電力の環境価値証書とは制度的性格が異なる。これらを一括りに「証書」として扱う社内資料は、要件が厳格に運用される局面で使えなくなる。24/7 マッチング(時間単位での再エネ調達証明)に近い水準を要求されると、既存の証書中心の調達では要件を満たせない。Google が 2030 年を目標に掲げる 24/7 カーボンフリー電力調達をそのまま持ち込めないのは、日本の系統構成と PPA 市場の厚みが違うからだ。追加性のある電源を長期契約で確保する動きを、証書購入より先に置く判断が合理的な局面にある。2028年2月1日の必須化から逆算すれば、PPA の交渉・着工リードタイムを考慮して 2026年度中に案件の目処を立てておきたい。

第二にサプライチェーンの構造である。日本の製造業は多層下請構造を持ち、Tier2 以下の排出データ取得は欧州の垂直統合型企業より難度が高い。カテゴリ1 の一次データ化を進めるにあたり、Tier1 に対するデータ提供義務を契約に書き込んでも、Tier1 自身が Tier2 のデータを持たないケースが多い。ここで期待されるのが業界単位のデータ共有基盤で、日本では経済産業省と情報処理推進機構(IPA)が推進するウラノス・エコシステムが企業間データ連携の枠組みとして整備されてきた。ただし CFP データ連携について、Tier2 以下の実データがどの程度流通しているかは 2026年09月時点でも限定的とみるのが妥当で、個社の調達戦略をこの基盤の稼働前提で組むのは早い。基盤整備の動向を追いつつ、当面は取引額上位のサプライヤに対する個別の一次データ取得を軸に置くのが堅い。

第三に制度接続の相手が複数あることだ。日本企業は GX-ETS のフェーズ2、EU の CBAM、SSBJ 基準に基づく有価証券報告書での開示という SBTi 以外の3制度に、同じ排出データで応じることになる。GX-ETS はフェーズ2 が 2026年度に開始しており、対象要件や排出枠の割当方法、報告・償却のスケジュールは経済産業省の公表資料に示されている。CBAM は移行期間を経て本格適用の段階に入り、証書購入義務の開始時期と、2025年の簡素化パッケージによる適用対象・免除しきい値は EU の官報および欧州委員会の公表資料に基づいて自社適用を判定することになる。SSBJ 基準は 2025年3月に公表され、有価証券報告書での適用は時価総額規模に応じた段階適用となるため、自社がどの区分で何年度から対象になるかを金融庁の開示府令および東京証券取引所の公表資料に照らして押さえておきたい。SBTi の V2 対応をこれらと切り離して進めると、算定範囲・検証水準・報告時期がずれ、同じ数字を4通り作る事態になる。V2 の保証要件が明確化されたことで、この統合の余地はむしろ広がった。実際に工数が最も膨らむのはこの重複であって、削減投資そのものではない。逆に言えば、V2 対応を制度接続の統合機会として設計できた企業は、他社が4回払う費用を1回で済ませられる。ここが差になる。

まとめ

SBTi ネットゼロ基準 V2.0 は 2026年6月11日に最終版が公表され、2027年第1四半期から提出が可能になり、2028年2月1日以降の新規・更新目標では準拠が必須となる。既認定企業にとってこれは「もっと削れ」という要求ではなく、「どこを削ったことにするか」の線を引き直す改定である。この違いを理解しないまま V1 目標を延長すると、削減の実績は同じでも達成率の計算が変わり、制度上の評価だけが下がる。実務上のインパクトはスコープ1・2 の目標分離、スコープ3 の対象再定義、電力証書の扱いの3点に集中し、いずれも翌年度の調達・設備予算に直接跳ね返る。表3で示したように、スコープ3 の 1% 未満しか占めないカテゴリ6・7 に費やしてきた工数をカテゴリ1 の一次データ化に振り向ける組み替えが、制度適合コストの合理的な使い道になる。そしてその一次データを製品別の粒度で設計できるかどうかが、同じ費用を開示資料で終わらせるか見積書に載せるかを分ける。

中和・BVCM・ongoing emissions への気候資金の切り分けは、クレジット投資の問いを「買うか買わないか」から「いつの価格で確保するか」へ変えた。目標達成にカウントされるのは目標年の残余排出に対する恒久除去だけで、気候資金と BVCM は推奨にとどまる。年間排出 100 万トンの企業が残余排出 10% を 200 米ドル/t で中和するなら年間約 30 億円の恒常支出であり、これは 2050 年の話ではなく長期契約の判断が今の数年で必要になるという話だ。ただし DAC の価格見通しには下方の不確実性があり、長期固定契約に一括で踏み込むのは賢明ではない。少量の複数年契約でオプションを確保する段階的調達が、多くの日本企業にとって現実的な解になる。

判断の分かれ目は、V2 対応をコンプライアンス費用として処理するか、制度接続の資産形成として設計するかにある。2028年2月1日の必須化から逆算すると、目標再設定は 2027年内、その前提となるスコープ3 の重要性評価と一次データ整備・保証体制の構築は 2026年度中の着手が現実的な線になる。GX-ETS フェーズ2、CBAM 本格適用、SSBJ 基準の段階適用が重なるまさにこの 2026 年から 2028 年にかけて、同じ排出データを一つの基盤から供給できるかどうかが、脱炭素対応を費用で終わらせる企業と競争条件に変える企業を分ける分水嶺となる。


主要出典

  • Science Based Targets initiative(SBTi)「Corporate Net-Zero Standard Version 2.0」(2026年6月11日公表。V2.0 での提出は2027年第1四半期開始予定、2028年2月1日から必須)(https://sciencebasedtargets.org/)
  • Science Based Targets initiative(SBTi)「Corporate Net-Zero Standard Version 2 — Draft for Consultation」(2025年3月公表)
  • Science Based Targets initiative(SBTi)「Corporate Net-Zero Standard Version 1.3.1」および関連する Criteria and Recommendations 文書
  • Science Based Targets initiative(SBTi)Beyond Value Chain Mitigation(BVCM)関連公表文書
  • World Resources Institute / WBCSD「Corporate Value Chain (Scope 3) Accounting and Reporting Standard」(GHG プロトコル)(https://ghgprotocol.org/)
  • 経済産業省 GX リーグ「排出量取引制度(GX-ETS)」関連公表資料および GX 推進法関連法令(https://gx-league.go.jp/)
  • 欧州委員会「Carbon Border Adjustment Mechanism」Regulation (EU) 2023/956 および同制度の簡素化に関する改正・実施規則(https://taxation-customs.ec.europa.eu/carbon-border-adjustment-mechanism_en)
  • サステナビリティ基準委員会(SSBJ)「サステナビリティ開示基準(適用基準・一般基準・気候関連開示基準)」(2025年3月公表)(https://www.ssb-j.jp/)
  • 金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令」および有価証券報告書におけるサステナビリティ開示の適用に関する公表資料(https://www.fsa.go.jp/)
  • 経済産業省・独立行政法人情報処理推進機構(IPA)「ウラノス・エコシステム」関連公表資料(https://www.ipa.go.jp/)
  • 環境省・経済産業省・農林水産省「J-クレジット制度」(https://japancredit.go.jp/)
  • 資源エネルギー庁「高度化法における非化石価値取引市場」関連資料(非化石証書制度)(https://www.enecho.meti.go.jp/)

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