EU ETS Phase 4排出枠価格見通し2025〜2030:無償割当削減と航空・海運拡大の影響
2024年、EU ETS(欧州排出量取引制度)の排出枠(EUA)価格は2023年2月の高値約€100/tから€55〜65/tへと急落した。天然ガス価格の正常化、欧州の製造業不況による排出量減少、MSR(市場安定化メカニズム)の大量吸収が重なった結果だが、制度の構造変化を見れば2030年に向けた価格の長期上昇は不可避だ。Phase 4の年間削減率引き上げ、航空・海運の無償割当廃止、CBAM連動の削減加速が織り重なり、主要アナリストは2030年のEUA価格が€100〜150/tへ上昇すると予測する(出典:GMK Center)。本記事ではEU ETSのPhase 4制度設計、価格ドライバー、航空・海運拡大の財務影響、そして日本企業の実務対応を詳解する。
EU ETS Phase 4の制度概要:2021〜2030年の骨格
EU ETSは2005年に開始し、Phase 4(2021〜2030年)は欧州グリーンディールの下、2023年の法改正(EU ETS Directive改正)により大幅に強化された。2030年目標は2005年比62%削減(改正前は43%)へと引き上げられ、排出枠の年間削減率(Linear Reduction Factor:LRF)は2024〜2027年に4.3%/年、2028年以降は4.4%/年へ加速した(出典:ICAP)。
Phase 3(2013〜2020年)のLRFは1.74%/年、Phase 4当初(2021〜2023年)は2.2%/年であり、2024年以降の4.3%はPhase 3の約2.5倍にあたる。毎年市場に供給される排出枠が急速に減少することを意味する。なお、LRFは2008〜2012年の年平均発行量を基準に適用されるため、4.3%に相当する年間削減量は約8,400万t-CO₂となる。Phase 4の総排出枠上限(Cap)は2024年に約15億t-CO₂/年から始まり、2030年には排出枠の総量が2024年比で大幅に縮小する計算だ。
EUA価格の実績と2025〜2030年見通し
2023〜2025年の価格推移
EUA価格は2023年2月に約€100/tの史上高値を付けた後、複数の要因が重なり2024年には€55〜65/t水準まで下落した。主因は①欧州の気温上昇(暖冬)と高いガス価格正常化による電力部門排出量の大幅減少、②製造業の生産縮小による産業排出量の構造的落ち込み、③MSRによる大量吸収(2025年1月1日に2億7,100万枚を無効化)だ。2025年1〜5月の価格は€60〜80/tのレンジで推移した(出典:AFS Energy)。
2025〜2030年のアナリスト予測
以下はETS1(既存ETS)のEUA価格に関する予測である。
| 機関 | 2025年予測 | 2027年予測 | 2030年予測 |
|---|---|---|---|
| ABN AMRO | €70〜80/t | €90〜100/t | €120〜130/t |
| GMK Center | €75/t | €95/t | €126/t |
| Enerdata | €65〜75/t | €85〜100/t | €110〜130/t |
GMK Centerの数値は予測レンジの中央値である。なお、BloombergNEFが示す€149/t(2030年)はETS1のEUAではなくETS2(建物・道路輸送)の排出枠価格の予測値であり、上表とは別建ての市場を対象とする点に注意が必要だ。
主要アナリストのコンセンサスは2030年に€100〜150/tへの上昇。背景は供給サイドのLRF加速とMSR吸収、需要サイドでは電力部門の脱炭素が進む一方、化学・鉄鋼・セメントなどの排出削減コストが高い産業が排出枠購入を余儀なくされる構造的需要の継続だ(出典:GMK Center)。
市場安定化メカニズム(MSR)の動向
MSR(Market Stability Reserve)はEUA市場の過剰・過少供給に対応する自動調整メカニズムで、総流通量(TNAC:Total Number of Allowances in Circulation)が上限の8億3,300万tを超えた場合、TNAC全体の24%(ただしTNACが上限を下回らない範囲で、超過分が上限となる)を市場からMSRへ引き上げる。2024年の余剰は14億枚に達していたが、MSRが機能して2025年1月1日に2億7,100万枚が無効化された(出典:EU Climate Action)。
また2025年11月、欧州委員会はETS2の円滑な立ち上げを支援するためMSR Decision改正案を提示した。ETS2用のMSRには6億枚が充填される予定で、ETS2の価格が€45/t超となった場合は放出量が2倍になる「価格上限」メカニズムも導入される(出典:EU Commission)。
航空・海運の排出枠拡大:無償割当の段階的廃止
航空セクター
航空部門は2012年からEU ETSの対象に組み込まれているが、適用範囲はEEA域内(intra-EEA)フライトに限定されている。EEAと域外国を結ぶフライト(日欧間の直行便を含む)はEU ETSの排出枠提出義務の対象外であり、ICAOのCORSIA(国際民間航空のためのカーボン・オフセットおよび削減スキーム)の枠組みで扱われる。Phase 4改正で強化されたのは、この域内フライトに対する無償割当の廃止である。
- 2024年:EEA域内フライトの無償割当を段階的に削減開始
- 2025年:EEA域内フライトの無償割当は50%まで削減
- 2026年:EEA域内フライトの無償割当を完全廃止(対象排出量の全量を有償取得)
2026年以降、EEA域内路線を運航する航空会社は、当該域内フライトの排出量全量についてEUAを購入する必要がある。日本の航空会社が運航する日欧直行便そのものはEU ETSの対象外だが、欧州到着後にEEA域内で乗り継ぐ便(自社運航・提携他社運航を問わず)は対象となり、そのコストは運賃・サーチャージを通じて利用者に転嫁されうる(出典:ICAP)。
海運セクター
2024年から海運がEU ETSに新たに組み込まれた。段階的な義務化スケジュールは以下の通り。
- 2024年排出分:2025年に検証済み排出量の40%分のEUAを提出義務
- 2025年排出分:2026年に70%分を提出
- 2026年排出分以降:100%分を提出(完全適用)
対象は総トン数5,000GT以上の船舶で、EU寄港地間の航海(域内100%)および域外(EU寄港/出港)の航海の50%が対象。コンテナ船・バルカー・タンカー・RoRo等が含まれる(出典:Emissions-EUETS.com)。
日本の海運大手(日本郵船・商船三井・川崎汽船)は、欧州寄港を含む全航路でEUA購入コストが増大する。排出量1万t-CO₂、EUA€80/tと仮定すると追加コストは年間約1億円以上に達し、2026年以降は全排出量に拡大するため影響は更に大きい。
CBAMとの連動:無償割当削減の加速
EU CBAMの導入は、EUA無償割当の段階的削減と直接リンクしている。従来、炭素リーケージリスクのある産業(鉄鋼・アルミ・セメント・化学等)は保護目的で大量の無償割当を受けていたが、CBAMが輸入品の炭素コストをカバーするにつれて無償割当は不要になる。削減率は年率一定ではなく逓増する設計で、スケジュールは以下の通り。
| 年 | CBAM対象産業の無償割当削減率(累計) |
|---|---|
| 2026年 | 2.5% |
| 2027年 | 5% |
| 2028年 | 10% |
| 2029年 | 22.5% |
| 2030年 | 48.5% |
| 2031年 | 61% |
| 2032年 | 73.5% |
| 2033年 | 86% |
| 2034年 | 100%(完全廃止) |
初期の削減幅は小さいが2029年以降に急加速し、2034年に無償割当はゼロとなる。なお電力部門は2013年(Phase 3開始)以降、原則として無償割当の対象外であり、発電に用いる排出枠は全量オークションで取得している。CBAM対象産業についても2034年以降は無償割当が消滅し、排出枠を全て有償取得しなければならない(出典:ICAP)。
ETS2:建物・道路輸送への拡大(2027年〜)
2023年の制度改正で決定したETS2は、既存ETS(ETS1)とは別建てで建物暖房・道路輸送・中小工場を対象とする新システムで、2027年から開始される。ETS2下の排出枠の価格はBloombergNEFが2030年に€149/tと予測しており、家庭の暖房費31〜41%増、自動車燃料費22〜27%増という試算もある。ETS1のEUAとETS2の排出枠は別の市場であり、価格も別々に形成される点に留意が必要だ。欧州エネルギー価格の上昇圧力が続く中、欧州に生産・販売拠点を持つ日本企業のエネルギーコスト試算に組み込む必要がある(出典:BloombergNEF)。
実務への示唆:日本企業のEU ETS対応
- EU子会社・生産拠点のEUA購入計画:EU域内で直接排出枠提出義務を持つ施設(工場等)は、今後5年間のEUA購入コスト上昇を財務計画に織り込む。€80〜130/tのシナリオで設備投資のNPVを再計算する。
- 海運コストの見直し:2026年から海運100%適用。日欧間のコンテナ輸送コストへのEUAコスト上乗せを確認し、物流契約のEUA条項を追加交渉する。
- 航空費用の見方:日欧直行便はEU ETSではなくCORSIAの枠組みであり、EUA提出義務は生じない。予算に織り込むべきはEEA域内の乗り継ぎ区間に係るEUAコストの転嫁分であり、出張費・航空貨物費の前提として航空会社のサーチャージ動向を確認する。
- ETS2対象の欧州事業所リスク:欧州の建物・輸送コストがETS2で上昇。欧州工場・オフィスのエネルギー効率化・電化投資を前倒しすることで2027年以降のコスト増を抑制できる。
- 内部炭素価格の設定:EU ETS価格を参照した内部炭素価格(ICP)を設定し、欧州投資案件の採択基準に炭素コストを統合する。€80〜100/tのICPが業界標準水準になりつつある。
まとめ
- EUA価格は2024年に€55〜65/tまで下落したが、LRF加速(2024〜2027年4.3%/年、2028年以降4.4%/年)と無償割当削減により、主要アナリストは2030年に€100〜150/tへの上昇を予測する。財務計画は価格上昇シナリオを前提に組む。
- 航空のEU ETS適用はEEA域内フライトに限定され、日欧直行便はCORSIAの対象。2026年に域内フライトの無償割当が完全廃止されるため、欧州内の乗り継ぎ区間や航空貨物のコスト転嫁を予算に反映しておく。
- 海運は2026年排出分から100%適用となる。日欧間の物流費へのEUAコスト転嫁を予算・契約条件に反映しておく。
- CBAM対象産業の無償割当は2026年の2.5%から段階的に削減幅が拡大し(2029年22.5%、2030年48.5%)、2034年に完全廃止となるため、欧州拠点の排出削減投資は前倒しで検討する。
- 2027年開始のETS2(建物・道路輸送)はETS1とは別市場で、BloombergNEF予測では2030年に€149/t。ETS1のEUA価格と混同せず、欧州事業所のエネルギーコスト試算と効率化・電化投資計画に織り込む。
- EU ETS価格を参照した内部炭素価格(ICP)を設定し、欧州投資案件の意思決定に炭素コストを統合する。
参考文献
- BloombergNEF — EU ETS Market Outlook 1H 2024: Prices Valley Before Rally
- BloombergNEF — ETS2 Carbon Price Forecast €149/t by 2030
- EU Climate Action — Market Stability Reserve
- EU Commission — MSR Adjustments for ETS2 (2025年11月)
- ICAP — EU ETS System Description
- GMK Center — EU ETS Carbon Price Forecast €126/t by 2030
- AFS Energy — EU ETS Price Forecasts 2025-2030