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排出権取引(ETS)のグローバル比較 — EU・中国・韓国・日本の制度設計と価格水準

同じ1トンのCO2に、EUでは約70ユーロ(円換算で1万円強)、中国では60〜100元(約1,300〜2,100円)、韓国では1万ウォン前後(約1,100円)の値段が付き、日本ではまだ実質的な市場価格すら定まっていない。最大10倍を超えるこの価格差は、環境規制の厳しさの差ではなく、制度設計の差そのものだ。主要4極のETSを制度設計・価格水準・拡張ロードマップの3軸で比較すると、グローバル企業が「どの市場の炭素価格を経営前提に置くべきか」の答えが見えてくる。

なぜETSの「制度間格差」が経営アジェンダなのか

炭素価格は、すでに環境部門の管轄事項ではない。電力・素材コストに直接上乗せされ、地域ごとに水準の異なる「事業コストの構成要素」になっている。EU域内で鉄鋼を作れば1トンあたり数十ユーロの炭素コストが原価に織り込まれ、中国で作ればその10分の1以下で済む——この非対称が、これまで生産立地の選択に静かに作用してきた。

その非対称を強制的に是正しに来たのがCBAM(炭素国境調整メカニズム)だ。2026年からの本格適用により、EU向けに鉄鋼・アルミ・セメント・肥料・水素・電力を輸出する企業は、自国で支払った炭素価格とEU-ETS価格の「差額」をCBAM証書として支払う。2025年に採択された簡素化規則で小規模輸入者の適用免除など運用負担は軽減されたが、対象セクターの大口輸出者にとって骨格は変わらない。自国のETS価格が低いことは、もはやコスト優位ではなく、EU国境で精算される「後払いの負債」に変わる。自社のカーボンコスト試算が「どの市場の価格」を前提にしているかを問い直すことが、GX担当者とCFOの共通アジェンダになった理由がここにある。

比較の物差し — ETSを評価する制度設計軸

4極の比較に入る前に、物差しを揃えたい。ETSの価格形成力は、次の5軸でほぼ説明できる。

テーブルA: ETSの制度設計5軸と価格への影響経路

設計軸 選択肢 価格への影響
キャップ設定 絶対量 vs 原単位(ベンチマーク) 絶対量キャップは希少性を保証し価格が立つ。原単位は生産増で排出枠も増え、価格が立ちにくい
対象セクター・カバー率 電力のみ〜経済全体 カバー率が高いほど限界削減費用の高い主体が参加し、価格が上がる
割当方式 無償割当 vs 有償オークション 有償比率が高いほどキャッシュアウトが発生し、価格シグナルが投資判断に直結する
価格安定化メカニズム MSR・上下限価格・繰越制限 余剰枠の吸収装置があるほど価格の底が固い
罰則・遵守インセンティブ 超過罰金・翌年度控除・公表 罰則が市場価格を大きく上回るほど遵守需要が確実になる

この5軸が価格形成の「強度」を決め、ひいては参加企業の負担と、クレジット売却・省エネ投資回収といった機会の大きさを決める。以下、各極をこの物差しで測る。

EU-ETS — 世界の価格ベンチマークを作った「完成形」

EU-ETSは2005年開始、5軸すべてで最も強い設計を採る。キャップは絶対量で毎年縮小し、余剰枠はMSR(市場安定化リザーブ)が自動的に吸収・無効化する。第1〜2期に価格崩壊を経験した後、MSRの本格稼働で構造的な価格下支えを獲得し、EUA価格は2021年以降おおむね60〜100ユーロ/tのレンジで推移してきた。2023年前半には100ユーロ近辺の高値を付けている。

企業戦略上の要点は2つある。まず、無償割当の段階的廃止とCBAMが連動している点だ。CBAM対象セクターの無償割当は2026年から2034年にかけて段階的にゼロになり、その分が国境調整に置き換わる。これはEUが自らの炭素価格を域外に「輸出」する仕組みであり、EU向け輸出比率の高い素材メーカーにとって、EUA価格は他人事ではなく自社の限界コストになる。

もう一つがETS2の存在だ。建物・道路運輸の燃料供給者を対象とする第2のETSは、当初2027年開始とされていたが、欧州気候法をめぐる政治合意により2028年への延期が決まった。開始時期は後ろ倒しになったものの、カバー範囲を経済全体へ広げる方向自体は維持されており、既存ETSと合わせればEUの排出の大半に明示的な炭素価格が付く。多くのグローバル企業が内部炭素価格を1万円/t前後、あるいは100ユーロ超に設定するのは、EUAのこの価格レンジを「将来自社に波及する水準」として先取りしているからだ。投資判断の内部炭素価格に迷うなら、EUA先物カーブを参照するのが最も合理的だ。

中国全国ETS — 世界最大のカバー量と「原単位方式」の限界

中国全国ETSは2021年7月に取引を開始し、当初は発電部門2,000社超・年間約45億トンをカバーする、排出量ベースで世界最大の制度だ。2025年には鉄鋼・セメント・アルミ製錬への対象拡大が始まり、カバー量は約80億トン、全国排出量の6割規模に達する見込みである。

ただし5軸で測ると、設計の「弱さ」が際立つ。キャップは絶対量ではなく原単位(発電量あたりのベンチマーク)ベースで、生産が増えれば割当も増える。総量削減を保証しない設計であり、割当はほぼ全量無償、取引は遵守期限直前に集中し、平時の流動性は乏しい。CEA(全国炭素排出権)価格は開始時の約50元から2024年に一時100元超まで上昇した後に反落し、その後は割当厳格化の観測を材料に再び持ち直す不安定な展開が続いている。水準としてはEUAの10分の1以下にとどまる。

CCER(中国版ボランタリークレジット)が2024年1月に約7年ぶりに再開されたことも押さえておきたい。対象企業は義務量の5%までCCERで充当でき、再エネ・植林等のプロジェクト保有者には新たな収益機会が生まれている。

テーブルB: 中国全国ETSの対象拡大ロードマップ

時期 対象 概算カバー量
2021年〜 発電(石炭・ガス火力) 約45億t/年
2025年〜 鉄鋼・セメント・アルミ製錬を追加 約80億t/年
今後 化学・石化・製紙・航空等へ拡大方針 未定

中国に生産拠点を持つ日本企業にとって、現時点の炭素コストは軽微だ。しかし方向性は明確で、当局は割当ベンチマークの段階的厳格化と有償割当の導入検討を公言している。価格が低いうちに削減投資とCCER創出ポジションを仕込むか、割当が締まり価格が水準を切り上げてから買い手に回るか——この選択の有利不利は、時間が経つほど前者に傾く。

韓国K-ETS — 制度は作れても価格は作れなかった先行者

K-ETSは2015年開始、東アジア初の全国レベル・絶対量キャップのETSであり、国内排出の7割超をカバーする。制度の「格」だけ見ればEUに次ぐ先進性で、第3期(2021〜2025年)には一部業種で10%の有償割当が導入され、2026年からの第4期割当計画では有償比率のさらなる引き上げと割当厳格化が承認された。

ところが価格は制度の格に追いつかなかった。KAU価格は一時4万ウォン超まで上昇した後、慢性的な過剰割当と、繰越(バンキング)制限が招いた期末の投げ売りによって大きく崩落し、近年は1万ウォン前後(約1,100円/t)の低迷が続いてきた。政府は証券会社の市場参加拡大など流動性対策を講じたが、根本原因である割当の緩さが解消されない限り価格は立たない。もっとも潮目は変わりつつあり、韓国政府自身が第4期の割当厳格化を受けて2026年に価格が2倍近くに上昇するとの見通しを示している。

韓国の経験が日本に与える示唆は痛烈だ。総量キャップ・法定義務化・罰則という「正しい制度部品」を揃えても、割当が緩ければ価格はゼロ近傍に張り付き、企業の削減投資インセンティブは生まれない。制度は作れても価格は作れない。この失敗パターンを日本のGX-ETSが回避できるかが、次節の論点になる。

日本GX-ETS — 2026年度、プレッジ&レビューから義務化へ

日本のGX-ETSは、2023年度からGXリーグ参加企業による自主的な排出量取引として始まり、2025年のGX推進法改正により法定制度へ移行した。2026年度からは、直接排出10万t-CO2/年以上の企業(300〜400社規模、国内排出の約6割をカバーする見込み)に参加が義務化される。設計の骨格は「段階的な締め付け」であり、スケジュールを整理すると次のようになる。

テーブルC: GX-ETSの段階導入スケジュールと企業への影響時期

時期 制度イベント 企業への実質的影響
2023〜25年度 GXリーグ自主フェーズ(プレッジ&レビュー) 算定・開示体制の構築、超過削減枠の試行取引
2026年度〜 排出量取引の義務化(直接排出10万t以上) 割当遵守義務の発生、未達時のクレジット調達コスト
2028年度〜 化石燃料賦課金の導入 燃料・電力調達コストへの転嫁開始
2033年度〜 発電部門への有償オークション導入 電力価格への炭素コスト本格織り込み

注目すべきは、政府が上限・下限価格の導入方針を示している点だ。下限価格は韓国型の価格崩落を防ぎ、上限価格は企業の負担予見性を担保する。設計思想としては妥当だが、実効性は水準次第だ。下限が数百円/t程度にとどまれば削減投資を動かす力はなく、EUA並みの1万円/t水準に近づけば産業界の反発と国際競争力への配慮が政治的制約になる。落としどころは段階的な下限引き上げになる公算が大きく、企業側は「初期は低価格、2030年代に向けて右肩上がり」という価格パスを試算の前提に置くのが現実的だ。

見落とされがちだが、GX-ETSにはもう一つの顔がある。義務化はコストであると同時に、削減が進んだ企業には超過削減枠の売却という収益機会を生む。制度開始初期の低価格局面では売却益は小さいが、割当が締まる2030年代には、先行して削減した企業ほど「売れる枠」を持つ構図になる。EUで2000年代に割当超過分を収益化した電力・素材企業の再現が、規模は小さいながら日本でも起こりうる。

4極比較の結論 — どの価格を経営前提に置くか

4極を並べると序列は明瞭だ。制度設計の強度と価格水準はほぼ比例しており、EU-ETSだけが「投資判断を動かす価格」を実現している。中国は規模で勝るが原単位方式ゆえに価格が立たず、韓国は設計は正しいが割当の緩さで価格を失い、日本はこれから両者の轍を避ける設計勝負に入る。

したがってグローバル企業の実務解はこうなる。EU向け輸出があるならEUA価格(60〜100ユーロ/t)を限界コストとして原価計算に織り込む。中国・韓国拠点の炭素コストは現状軽微だが、両国とも割当厳格化の方向を明示している以上、2030年時点の社内試算には現在価格の2〜3倍を置くのが保守的な推計として妥当だ。国内については、GX-ETSの価格が当面低位でも、化石燃料賦課金と発電有償化が重なる2028〜2033年度にコスト実感が段階的に立ち上がる前提でエネルギー調達計画を組む。単一の内部炭素価格で全拠点を評価するより、地域別の価格パスを持つほうが投資の優先順位付けの精度は明らかに高い。

まとめ

ETSの国際比較が示すのは、炭素価格が「制度設計の関数」だという事実だ。絶対量キャップ・有償割当・価格安定化装置を揃えたEUだけが1万円/t超の価格を維持し、その価格はCBAMを通じて域外企業の限界コストに転化しつつある。中国と韓国の経験は、カバー規模や制度の形式が整っても、割当の緩さ一つで価格シグナルが消えることを証明した。

日本のGX-ETSはこの教訓を活かせる位置にいる。下限価格の導入方針は韓国型の崩落を防ぐ設計として評価できるが、その水準設定と割当の厳格さが実効性を分ける。企業側から見れば、義務化初期の低価格局面は「安く削減投資を仕込み、超過削減枠の売り手ポジションを作る」最後の窓であり、この窓は割当が締まるにつれて閉じていく。

2026年度の義務化開始から、化石燃料賦課金が入る2028年度、発電部門の有償オークションが始まる2033年度へと、日本の炭素価格は不可逆的に立ち上がる設計になっている。EUAの価格パスを先行指標に、地域別の炭素コストを織り込んだ投資判断へ切り替えられるかどうか——2028年度の賦課金導入までの3年間が、その分水嶺となる。


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