海運の脱炭素は「規制に従うかどうか」の問題ではなく、「どの価格帯でどの燃料・どの契約が最も安いか」という価格形成の問題に変わった。IMOネットゼロ枠組み(Net-Zero Framework、以下NZF)は船舶燃料のGHG強度に対する世界初のグローバル炭素課金だが、その課金額は制度が一律に決めるのではなく、二層の是正ユニット価格と余剰ユニットの需給、そしてEU側の既存規制との重畳によって航路ごとに大きく異なる実効価格として立ち上がる。VLSFO(低硫黄重油)を焚き続けた場合の追加負担は、当初案のスケジュールで2028年に燃料1tあたり約80米ドル、2035年には約458米ドルという試算になり、燃料転換の損益分岐点は「余剰ユニットがいくらで取引されるか」にほぼ従属する。(本稿の情報は2026年09月時点)
NZFの課金構造を「価格メカニズム」として読み直す
NZFは2025年4月のMEPC 83で承認され、同年10月の臨時会合(MEPC/ES.2)で正式採択される予定だった。しかし採択は米国・サウジアラビアなどの反対と一部加盟国の棄権により、審議を1年延期する動議が賛成57・反対49・棄権21で可決され、2026年10月の再開会合に持ち越された(出典: IMO)。当初案では採択後16か月で発効し2027年に効力が生じ、2028年が初回コンプライアンス年とされていたが、延期に伴い発効と初回年が1年後ろ倒しになる公算が大きい。2026年に入ってからも中間作業部会とMEPC 84で継続協議されたが、Tier2価格の水準、化石LNGの扱い、ZNZ報酬の単価という三点は決着しておらず、10月の再開会合が制度パラメータの確定点になる(出典: IMO会合資料)。以下の試算はすべて当初案のスケジュール(2028年初回)を前提としており、1年遅れれば数値の年次を1年ずらして読む、というのが実務上の扱いだ。CIIやEEXIといった既存の技術・運航指標の解説、および荷主側のScope 3カテゴリ4・9の算定実務については既存記事に委ね、ここでは課金がどのように価格を形成するかだけを扱う。
制度の骨格は、総トン数5,000GT以上の外航船を対象に、燃料のWell-to-Wake GHG強度(GFI、単位gCO2e/MJ)に対して二層の目標を課すものだ。2008年基準の参照値93.3gCO2e/MJに対し、緩い方の「Base目標」と厳しい方の「Direct Compliance目標」が毎年引き下げられる。2028年はBase目標が4%減(89.6g/MJ)、Direct目標が17%減(77.4g/MJ)で始まり、2030年にはそれぞれ8%減と21%減、2035年には30%減(65.3g/MJ)と43%減(53.2g/MJ)に達する。船舶のGFIがDirect目標を超えBase目標以下の帯域にある分はTier1是正ユニット(100米ドル/tCO2e)を、Base目標を超えた分はTier2是正ユニット(380米ドル/tCO2e)を購入して埋める。ユニット価格は2028〜2030年の3年間固定で、それ以降は見直しの対象になる。逆にDirect目標を下回った船舶には余剰ユニット(Surplus Unit、SU)が発行され、2年間の繰越と他船への移転が認められる。加えてGHG強度が19g/MJ以下(2035年以降は14g/MJ以下)の「ゼロ・ニアゼロ(ZNZ)燃料」を使った船舶は、是正ユニット収入を原資とするIMOネットゼロ基金から報酬を受け取れる。
資金の流れを一枚に描くと、船社がTier1・Tier2の是正ユニットを購入して基金に資金が集まり、基金からZNZ燃料使用船への報酬と途上国支援・公正な移行支援に分配される。この縦の流れとは別に、船社間ではDirect目標未達の船がSUを買い、超過達成船がSUを売る横の取引が成立する。制度が「排出量取引」ではなく「強度基準+差額課金」である点は決定的で、EU ETSのように排出総量にキャップがかかって価格が需給で一意に決まるのではなく、Tier2価格380米ドルという明示的な天井の下でSUの価格だけが市場で決まる構造になっている。
実効炭素価格はいくらになるか — 二層課金・余剰ユニット・EU規制の重畳
VLSFOのWtW強度を91.5g/MJ、熱量を41GJ/tと置いて是正ユニット負担を試算すると、2028年はBase目標を1.9g/MJ超過した分がTier2で約30米ドル、Direct目標との差12.2g/MJがTier1で約50米ドル、合計で燃料1tあたり約80米ドルになる。2030年は目標の引き下げでTier2超過分が5.7g/MJに広がり合計約138米ドル、ユニット価格が据え置かれると仮定した2035年にはTier2超過分が26.2g/MJに達して合計約458米ドルに跳ね上がる。燃料1tのWtW排出量を3.75tCO2eとすれば、これは実効炭素価格に換算して2028年約21米ドル/tCO2e、2030年約37米ドル、2035年約122米ドルという水準を意味する。VLSFO価格を500〜550米ドル/tと置けば、追加負担は2028年に燃料価格の約15%、2030年に約25%に相当する。
欧州航路にはこれにEU ETSとFuelEU Maritimeが重なる。EU ETSの海運適用は2024年排出分の40%、2025年排出分の70%を経て、2026年排出分から100%(域外との航海は50%換算)になった。FuelEU Maritimeは2025年から参照値91.16g/MJ比2%のGHG強度削減を義務づけ、2030年に6%、2035年に14.5%へ厳格化する。不足分の罰則はVLSFO換算1tあたり2,400ユーロで、EUAを75ユーロと置いたETS負担よりも単価が桁違いに高い(出典: 欧州委員会、Regulation (EU) 2023/1805)。FuelEUは2025年が初回コンプライアンス年であり、2026年中に初年度の検証と適合証書の発行が進んでいるため、以下の推計は今後実績値で検証可能になる。
| 航路・制度(VLSFO継続、燃料1tあたり) | 2028年 | 2030年 | 2035年 | 前提 |
|---|---|---|---|---|
| NZF是正ユニット負担(Tier1+Tier2) | 約80米ドル | 約138米ドル | 約458米ドル | Tier1=100、Tier2=380米ドル固定を仮定 |
| EU ETS上乗せ(アジア〜欧州、50%換算) | 約130米ドル | 約130米ドル | 約130米ドル | TtW 3.15tCO2/t燃料×50%×EUA 75ユーロ×1.10 |
| FuelEU罰則上乗せ(アジア〜欧州、50%換算) | 約30米ドル | 約85米ドル | 約195米ドル | 2%・6%・14.5%の不足分を全額罰則で処理した場合の推計 |
| アジア域内航路 合計(NZFのみ) | 約80米ドル | 約138米ドル | 約458米ドル | — |
| 欧州航路 合計(3制度合算) | 約240米ドル | 約355米ドル | 約785米ドル | 為替1ユーロ=1.10米ドル |
制度値はIMO MEPC 83報告およびFuelEU規則の附属書、燃料強度はIMO LCAガイドライン(決議MEPC.391(81))のデフォルト値に基づく試算である。コンテナ1TEUあたりに引き直すと、1TEU=0.21t燃料相当と仮定した場合のNZF負担は2028年約17米ドル、2030年約29米ドル、2035年約96米ドルで、これにEU ETS分(TtW 0.65tCO2/TEU×50%×75ユーロ×1.10)の約27米ドルが欧州航路で加わる。
この表から言い切れるのは、欧州航路ではNZF発効前の2026年時点で既にETSとFuelEUだけで燃料1tあたり約160米ドル(試算)の炭素コストが発生しており、NZFは「新たな負担の始まり」ではなく「三層目の上乗せ」に過ぎないということである。逆にアジア域内航路ではNZFが唯一の炭素コストであり、2030年までは燃料価格の15〜25%程度の追加負担にとどまる。リスクが集中するのは2031年以降で、ユニット価格の見直しと目標の急峻な引き下げが同時に来るため、2035年の数値は上下どちらにも大きく振れうる。EUA価格も表全体を動かす変数で、75ユーロの前提が90ユーロに動けばETS行は約155米ドルに膨らむ。
もう一つの変数がSU価格だ。理論上の上限はTier2の380米ドルで、これを超えるならSUを買わずに是正ユニットを買えばよい。下限はZNZ燃料の限界削減コスト、すなわち「あと1tCO2e減らすのに燃料プレミアムがいくらかかるか」で決まる。制度初期はSUの供給がバイオ燃料混焼船とLNG船に偏り、需要側も様子見に回るため、Tier1価格100米ドル近傍に張り付くというのが筆者の見立てである。他方、ZNZ燃料の供給不足が続けばSU供給が細り、Direct目標を大きく割り込む船の希少性が高まってTier2寄りの300米ドル台に上振れするシナリオも否定できない。課金額の相当部分は「制度が決める」のではなく「SUの需給が決める」のであり、この価格観こそが燃料選択の分岐点になる。
代替燃料の採算分岐 — 「罰金価格」を上回る燃料プレミアムは正当化できるか
燃料転換が経済合理的になる条件は、燃料プレミアムが「回避できる是正ユニット費用+得られるSUの売却益+ZNZ報酬」を下回ることだ。この不等式を燃料別に検証すると、成立時期が明確に分かれる。
| 燃料 | WtW強度(gCO2e/MJ) | 2026年プレミアム(米ドル/t VLSFOe、推計) | 2028年の回避価値(SU=100米ドル) | 2028年の回避価値(SU=300米ドル) | 2035年の回避価値(SU=100米ドル) | 分岐の判定 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| VLSFO(基準) | 91.5 | 0 | — | — | — | 是正ユニット負担のみ |
| 化石LNG(高圧ディーゼル機関、メタンスリップ込み) | 約78 | 約0〜50 | 約78 | 約78 | 約210 | 2028〜2031年は成立。2032年にLNG自身がBase目標を超過し、優位性はTier2の差額分に縮小 |
| バイオ燃料B30(UCO由来) | 約70 | 約150〜200 | 約110 | 約170 | 約335 | SU=300米ドルなら2028年から成立、100米ドルなら2030年前後。2035年にはB30自身がBase目標を超過 |
| バイオ燃料B100 | 約20 | 約500〜700 | 約315 | 約785 | 約595 | SU価格次第で2028年成立、供給制約が最大のリスク |
| グリーンメタノール | 約7.5 | 約1,400〜1,900 | 約365+ZNZ報酬 | 約940+ZNZ報酬 | 約645+ZNZ報酬 | SU=300米ドルでもプレミアム下限に届かず、ZNZ報酬なしには2030年代前半まで不成立 |
| グリーンアンモニア | 約3 | 約2,200〜3,100 | 約385+ZNZ報酬 | 約995+ZNZ報酬 | 約665+ZNZ報酬 | 2035年時点でも報酬水準に依存、資本コスト込みでは最も遠い |
回避価値=VLSFO継続時の是正ユニット負担−当該燃料の是正ユニット負担+SU売却益(SU発生量=(Direct目標−燃料GFI)×0.041tCO2e/t燃料)で全セルを同一ロジックで計算した試算である。燃料強度はIMO LCAガイドライン(MEPC.391(81))およびFuelEU附属書IIのデフォルト値に基づく概数で、LNGは低圧オットー機関ではメタンスリップにより80g/MJを超える。プレミアムはShip & Bunker、Argus、Maersk Mc-Kinney Moller Center for Zero Carbon Shipping(MMMCZCS)が公表する燃料実トンあたりの価格レンジを、熱量比でVLSFO等価に換算(メタノール×2.06、アンモニア×2.2)した推計であり、メタノール・アンモニアは実取引が薄く幅が大きい。
回避価値の内訳を例示すると、B100は2028年にDirect目標77.4g/MJを57.4g/MJ下回り、燃料1tあたり約2.35tCO2eのSUが生じるため、VLSFO継続時の負担80米ドルに、SU価格100米ドルなら235米ドル、300米ドルなら705米ドルの売却益が上乗せされて約315米ドル・約785米ドルになる。2035年のLNGは自らBase目標65.3g/MJを12.7g/MJ超過してTier2負担が生じるため、VLSFOとの差額は約210米ドルまで縮む。B30も2035年にはBase目標を4.7g/MJ超過し、回避価値は約335米ドルにとどまる。
表が示す構造は明快で、バイオ燃料は2028年時点で最も成立しやすいが、UCO・獣脂由来の供給量には限りがあり航空燃料(SAF)と原料を奪い合う。化石LNGは2031年までは「Tier1帯域に収まる」だけで採算が立つが、2032年にBase目標が77.6g/MJに下がるとLNGも超過側に回り、優位性は数年で細る。メタノールとアンモニアはSU=300米ドルの回避価値(約940・約995米ドル)でもプレミアム下限(約1,400・約2,200米ドル)に届かず、ZNZ報酬が燃料1tあたり数百米ドル規模で出ない限り、2030年代前半まで不等式が成立しない。報酬の単価はIMOネットゼロ基金の設計に委ねられており、2026年9月時点で確定していない点が最大の不確実性だ。
この表には資本コストが含まれていない。デュアルフューエル新造船の建造プレミアムは、造船・調査機関の公表推計でメタノール仕様が通常船比1割前後、アンモニア仕様がそれを上回る水準とされ、Maerskが2024年に実施した既存コンテナ船のメタノール改造は1隻あたり数千万米ドル規模と報じられた。この分を年間燃料消費量で割り戻すと燃料1tあたり数十米ドルの固定負担が加わり、損益分岐はさらに1〜2年後ろにずれる。反面、2035年以降の目標厳格化とユニット価格見直しを織り込めば、今後10年の残存耐用年数を持つ船ほど早期の投資が正当化されやすい。「規制が確定してから投資する」という判断は、SU価格が上振れした局面で最も高くつく選択になる。
誰が払うのか — 運賃転嫁と契約設計が実効価格を再分配する
課金の一次的な支払者は船社だが、最終負担者は契約設計で決まる。EU ETSの適用開始時、Maersk、Hapag-Lloyd、CMA CGMなどの主要コンテナ船社はETS課徴金(Emissions Surcharge、ETS Surchargeなど名称は各社で異なる)を導入し、EUA価格に連動して定期的に改定する方式を採った。改定頻度や算定式の公開度は社ごとに異なるが、荷主側の調達担当が経験した通り、この転嫁は原則として全額かつ機械的に行われ、交渉余地は「サーチャージの算定式の透明性」と「長期契約での上限設定」に限られた。NZFでも同じ構図が予想され、Tier1・Tier2の負担を航路別に按分したサーチャージが2028年(延期なら2029年)に登場するとみるのが自然だ。
差が出るのはSUと報酬の扱いである。是正ユニット費用は荷主に転嫁されるが、ZNZ燃料を使ってSUを売却した収益やZNZ報酬が荷主に還元される保証はない。ここで機能するのが、燃料属性を輸送サービスから切り離して取引する「ブック・アンド・クレーム型のインセッティング」で、MaerskのECO DeliveryやSmart Freight Centreの枠組みが先行例になる。荷主が代替燃料のプレミアムを直接負担する代わりにScope 3削減分と証跡を受け取り、船社はSUや報酬を自社の収入として確保する。荷主にとっては「サーチャージで罰金分を払い、さらにインセッティング料金を払う」二重払いのリスクがあるため、サーチャージ算定式にZNZ燃料使用による是正ユニット回避分を控除する条項を入れるかどうかが、調達交渉の実質的な争点になる。
用船契約でも配分は変わる。定期用船では燃料費を用船者が負担するため、是正ユニット費用も用船者に回る一方、SUは船舶に紐づいて発行されるため船主側に帰属しうる。BIMCOがEU ETS向けに策定した条項の延長線でNZF条項の標準化が進むとみられるが、SUの帰属と分配比率を契約で明示しない限り、超過達成の果実が船主・用船者のどちらにも帰属しない空白が生じる。実効炭素価格は制度が決める上限と市場が決めるSU価格の間で、最終的には契約条項が確定させるのである。
課題・反論・代替視点
最初の反論は、上記の損益分岐そのものが「NZFが2026年10月に当初案のまま採択される」という前提に立っていることだ。2025年10月の延期は手続き上の先送りではなく、米国が加盟国に反対を働きかけ、産油国が課金水準の引き下げを求めた政治的対立の帰結である。再開会合でTier2価格が引き下げられたり、ZNZの閾値やLNGの扱いが緩和されたりすれば、表の数値はそのまま変わる。逆に採択が再度見送られれば、EU ETSとFuelEUだけが実効的な炭素価格として残り、アジア域内航路の炭素コストはゼロのまま2030年を迎える。制度リスクを織り込まない投資判断は成り立たないが、それを理由に判断を先送りすれば、欧州航路の二層負担が既に発生している現実から目を背けることになる。
もう一つの限界は、SU価格を100米ドルと300米ドルの二点で置いたことにある。実際のSU市場には流動性の問題があり、繰越が2年に限られるため期末に投げ売りが起きやすい。加えてSUは船舶単位で発行されるため、同一船社内で融通されるだけで市場に出てこない可能性が高く、公表価格が形成されないまま相対取引が続く展開もありうる。市場が薄いほど価格の観測が難しくなり、燃料投資の前提として使いにくくなるという逆説がある。
代替視点として、そもそも燃料転換ではなく減速航行と省エネ改造で対応する方が安いという主張は無視できない。是正ユニットの購入量は「達成GFIと目標の差×年間消費エネルギー」で決まるため、減速で消費量が減れば燃料1tあたりの負担率は変わらなくても総額は比例して減り、排出総量に課金するEU ETSにも同じく効く。減速と省エネ改造は両制度に効く共通解であり、風力補助推進や空気潤滑はCIIにも寄与する。差が出るのは強度そのものを下げる燃料転換の側で、NZFとFuelEUにはWtW強度の低下がそのまま効くのに対し、EU ETSはTank-to-Wake排出に課金するため、持続可能性基準を満たすバイオ燃料やRFNBOはゼロ係数で効く一方、化石LNGはTtW削減分しか効かない。制度によって燃料転換の効き方が異なる以上、「燃料か、運航か」ではなく航路ごとの制度構成に合わせた組み合わせが最適解になる。バイオ燃料についてはライフサイクル評価の前提(土地利用変化の扱い、原料の持続可能性認証)が国際的に統一されておらず、IMOのLCAガイドラインの改定次第でWtW強度が上振れするリスクが残る。
日本市場・日本企業への示唆
日本の外航海運は制度面で特異な立場にある。日本は課金と報酬を組み合わせるフィーベート型の経済的手法をIMOに提案した一国であり、NZFはこれを含む複数案の折衷として成立した。国土交通省は2025年10月の延期後も採択支持の姿勢を維持している(出典: 国土交通省海事局)。一方で日本のGX-ETSは2026年度から本格稼働したが対象は国内の大規模直接排出者であり、国際海運は対象外だ。したがって日本船社にとって炭素コストの発生源はNZFとEU規制に限られ、国内制度との二重負担は生じないが、国内制度から得られる支援もない。欧州航路を主戦場とするONE(Ocean Network Express)は既にEU ETSとFuelEUの二層負担の中にあり、NZFが三層目として加わる。日本郵船・商船三井・川崎汽船の自動車船やばら積み船部門はアジア域内・太平洋航路の比率が高いため、NZFが実質的に初めての炭素コストになる。
海外事例をそのまま持ち込めない理由は燃料調達の地理にある。欧州の船社がバイオ燃料混焼で2028年の分岐点を越えられるのは、ロッテルダムやアントワープでB24〜B30混焼の供給が商業ベースで定着しているからだ(出典: Port of Rotterdam バンカー販売統計)。日本でも2023年以降、東京湾・伊勢湾・大阪湾などで商業ベースのB24供給事例が出ているが供給量は限定的で、シンガポールに依存する構造が続く。逆に日本企業が先行するのはアンモニア燃料で、日本郵船・IHI原動機のアンモニア燃料タグボート「魁」は2024年8月に引き渡され東京湾で運航中であり、日本郵船とジャパンマリンユナイテッドによるアンモニア燃料アンモニア輸送船はNEDOグリーンイノベーション基金事業として2026年度の引渡しを目標に建造が進んでいる。表が示す通りアンモニアの損益分岐は最も遠いが、ZNZ報酬の設計次第で評価は反転しうる。日本の造船・舶用機器産業にとって、報酬水準をめぐるIMOでの交渉は自国産業の受注環境を左右する交渉でもある。
荷主側の示唆はより実務的だ。日本の製造業がScope 3カテゴリ4・9で計上する海上輸送排出は、船社のサーチャージとインセッティングの両方に影響される。円建ての運賃契約では米ドル建てのユニット価格変動に為替リスクが加わり、ドル建てサーチャージの円換算額は為替次第で膨らむ。長期契約でサーチャージの算定式にSU回避分の控除を明記し、インセッティングの証跡がSmart Freight Centreのブック・アンド・クレーム方法論に準拠し、GHGプロトコルが策定中のScope 3市場ベース手法ガイダンスでも通用する形式になっているかを確認することが、日本の荷主にとって最も費用対効果の高い調達対応になる。
まとめ
NZFの課金は一律の税ではなく、Tier1の100米ドルとTier2の380米ドルという二つの天井の間で、余剰ユニットの需給が実効炭素価格を決める仕組みだ。VLSFO継続の負担は2028年に燃料1tあたり約80米ドルから始まり、2035年には約458米ドルへと6倍近くに達する試算になる。欧州航路ではこれにEU ETSとFuelEUが重なり、NZF発効前の時点で既に燃料1tあたり約160米ドルの炭素コストが発生している。アジア域内航路とは負担構造が根本から異なり、航路ごとに最適な燃料と契約が違うというのが分析の核心である。
代替燃料の採算は、燃料自体の価格よりも「SUがいくらで売れるか」「ZNZ報酬がいくら出るか」に強く依存する。バイオ燃料はSU価格が300米ドル台なら2028年から成立するが供給が細く、LNGは2031年までの短期解に過ぎない。メタノールとアンモニアは報酬設計が確定するまで損益分岐を計算しきれないが、資本コストを含めると先送りの代償は制度確定後に最も大きくなる。荷主にとっての実効価格は、サーチャージとインセッティングの契約条項がSU回避分を控除するかどうかで数割変わる。
2026年10月の再開会合でTier2価格とZNZ報酬の骨格がどう確定するかが、2030年に向けた海運脱炭素の分水嶺になる。そこで確定する数字が燃料1tあたり数百米ドルの投資判断を左右し、日本の船社・造船・荷主が2020年代末までに手にする選択肢の幅を決めることになる。
主要出典
- International Maritime Organization (IMO), “IMO Net-Zero Framework”(制度概要ページ) — https://www.imo.org/en/OurWork/Environment/Pages/IMO-Net-Zero-Framework.aspx
- IMO, Marine Environment Protection Committee (MEPC 83), 7–11 April 2025, Meeting Summary(MARPOL附属書VI改正案・目標軌道・ユニット価格) — https://www.imo.org/en/MediaCentre/MeetingSummaries/Pages/MEPC-83.aspx
- IMO, Second Extraordinary Session of the MEPC (MEPC/ES.2), October 2025, Press Briefing(審議延期の票決結果)
- IMO, Resolution MEPC.391(81), “2024 Guidelines on Life Cycle GHG Intensity of Marine Fuels (LCA Guidelines)”(燃料WtW強度のデフォルト値)
- European Commission, “Reducing emissions from the shipping sector”(EU ETS海運適用の段階的導入) — https://climate.ec.europa.eu/eu-action/transport/reducing-emissions-shipping-sector_en
- Regulation (EU) 2023/1805 on the use of renewable and low-carbon fuels in maritime transport (FuelEU Maritime), Annex I・II・IV, EUR-Lex — https://eur-lex.europa.eu/eli/reg/2023/1805/oj
- Maersk Mc-Kinney Moller Center for Zero Carbon Shipping, “Fuel Pathway Maturity Map” および代替燃料コスト分析(NavigaTEモデル) — https://www.zerocarbonshipping.com/
- Ship & Bunker, “World Bunker Prices”(VLSFO・LNG・バイオ燃料混焼のバンカー価格、2026年) — https://shipandbunker.com/prices
- Argus Media, “Argus Marine Fuels”(バイオ燃料・代替燃料の価格指標、2026年)
- DNV, “Maritime Forecast to 2050, 2025 edition”(代替燃料の供給見通しとデュアルフューエル船の発注動向) — https://www.dnv.com/maritime/publications/maritime-forecast/
- 国土交通省 海事局, 「IMO第83回海洋環境保護委員会(MEPC 83)の結果概要」(2025年4月)および「IMO臨時会合(MEPC/ES.2)の結果概要」(2025年10月)報道発表
- BIMCO, “ETS – Emission Trading Scheme Allowances Clause for Time Charter Parties 2022”
- Smart Freight Centre, “Book and Claim Methodology for Freight Transportation”(GLECフレームワーク関連文書)
- UNCTAD, “Review of Maritime Transport 2025” — https://unctad.org/publication/review-maritime-transport-2025
- Port of Rotterdam Authority, Bunker Sales Statistics(バイオ燃料混焼の四半期販売量)
- 日本郵船・IHI原動機, アンモニア燃料タグボート「魁」引渡しに関するプレスリリース(2024年8月)、日本郵船・ジャパンマリンユナイテッド, アンモニア燃料アンモニア輸送船(NEDOグリーンイノベーション基金事業)に関する公表資料