2024年4月、BASFはドイツ・ルートヴィヒスハーフェンの工場で大規模炉としては世界初となる電気加熱式ナフサクラッカー(電気クラッカー)のデモンストレーションプラント運転を開始した。出力6MW、従来型の燃焼式と比べてCO2排出を少なくとも90%削減できる技術だ。同時期、日本では旭化成・三井化学・三菱ケミカルが2024年5月8日に共同で、西日本地区(岡山県倉敷市水島地区および大阪府)のエチレン製造設備を対象に、カーボンニュートラル実現に向けた原燃料転換等の共同検討を開始すると発表した——国内には12基のクラッカーが稼働しており、事業統合や再編を通じた設備集約の可能性が業界の焦点となりつつある。世界の石油化学業界は「どうやって脱炭素するか」と「そもそも何基の設備が必要か」という二重の問いに直面しており、日本はその最前線に立たされている。
なぜ化学産業の脱炭素は難しいのか:クラッカーの特殊性
ナフサクラッカー(スチームクラッカー)は、ナフサ(石油精製の中間製品)を800〜900℃の高温で分解し、エチレン・プロピレン・ブタジエンなどの石油化学基礎原料を生産する装置だ。これが「化学産業の心臓部」であり、同時に最大のCO2排出源でもある。加熱に天然ガスや重油を燃焼させるため、エチレン1トンの生産につき約1.7〜2.5トンのCO2が排出される(スコープ1)。
問題の核心は「プロセス熱」にある。製鉄の高炉と同様、800〜900℃という高温を電気で安定的・経済的に供給することが技術的チャレンジだ。太陽光・風力の余剰電力活用という文脈では価格変動リスクも伴う。さらに化学産業は「燃料」としてだけでなく「原料」としても化石燃料を消費しており(フィードストック)、原料由来のCO2は電化だけでは削減できない。
電気クラッカー:BASF実証の意義と経済条件
BASFが2024年上半期に稼働させた電気クラッカーは抵抗加熱電気ヒーターを採用したもので、BASF・SABIC・Lindeの3社が共同開発したものだ。6MWのデモプラントで1,000〜2,000時間の連続運転を実施し、反応収率・製品品質が従来型と同等であることを確認した(BASFプレスリリース、2024年)。
電気クラッカーの経済性は電力価格に大きく依存する。公表されている技術経済分析では、電気クラッカーが従来型と競合しうる電力価格の水準として概ね40〜45ドル/MWh以下が示されている(プラント規模・資本費・ナフサ価格などの前提条件により大きく変動するため、幅を持って理解する必要がある)。欧州の産業用電力価格(2024〜2025年:概ね60〜100ドル/MWh程度)ではまだ採算に乗らず、「グリーン電力価格40ドル/MWh程度以下」が商業化の現実的条件とみられる。日本の産業用電力価格(約150〜200ドル/MWh相当)ではさらに厳しく、短期的には技術実証にとどまる見込みだ。
以下の比較表では、パスウェイ間の比較可能性を確保するため、コスト増加をすべて「エチレン1トン当たりの追加コスト($/t-エチレン)」に統一して示す。CCSについては、回収コスト60〜100ドル/t-CO2に、エチレン1トン当たりの燃焼由来CO2排出量(おおむね1.0〜1.5トン程度)を乗じて換算している。
| 脱炭素パスウェイ | CO2削減ポテンシャル | 現在のコスト増加($/t-エチレン) | 技術成熟度(TRL) | 商業化見通し |
|---|---|---|---|---|
| 電気クラッカー(抵抗加熱) | 少なくとも90%削減 | +400〜800(電力価格次第) | 5〜6 | 2030〜2035年以降 |
| グリーン水素置換 | 70〜80%削減 | +200〜600(H2コスト次第) | 6〜7 | 2028〜2033年以降 |
| CCS(燃焼排ガス回収) | 60〜80%削減 | +60〜150(回収コスト60〜100$/t-CO2を換算) | 8〜9 | 既存商業実例あり |
| バイオナフサ・e-ナフサ代替 | 50〜90%削減 | +500〜1,500 | 4〜6 | 2030年代以降 |
グリーン水素の現実:日本の調達コストと課題
水素はナフサクラッカーのプロセス熱供給(アンモニアクラッカー経由の高温熱)や、現在天然ガス由来の「グレー水素」を使っているSMR(水蒸気メタン改質)プロセスの脱炭素化に活用できる。三井化学はNEDOの助成を受け、再生可能電力由来のグリーン水素を用いたアンモニアクラッカーの実証プロジェクトを進めている。
しかし現在の日本のグリーン水素コストは約4,915ドル/MT(約66円/Nm3;1kg H₂≒11.2Nm3換算)。政府目標(2030年に30円/Nm3以下、2050年に20円/Nm3以下;水素基本戦略2023年改定)と比べても、現時点では商業的な化学プロセスへの組み込みには大幅なコスト差がある。水電解コストは再生可能電力コストと電解槽の資本費に依存しており、日本の電力コスト構造では欧州・中東・オーストラリアといった「グリーン水素輸出ポテンシャル国」に比べ不利な条件だ。
水素輸入戦略として、経済産業省が推進するオーストラリア・中東からの液化水素・アンモニア供給チェーン構築が現実的選択肢として浮上している。ただし輸送・貯蔵での損失やコストを考慮すると、輸入グリーン水素のCO2コスト換算でも2〜3ドル/kg以下にならないと石油化学への組み込みは困難とされる。
CCSの経済性:60〜100ドル/トンの現実
現在最も商業化が進んでいる脱炭素パスウェイはCCS(Carbon Capture and Storage)だ。石油化学クラスターにおけるCO2回収・圧入コストは世界の商業事例で60〜100ドル/tCO2とされる(IEA「CCUS in Clean Energy Transitions」)。エチレン1トン当たりに換算すると、燃焼由来CO2の排出量に応じておおむね+60〜150ドル/t-エチレンの追加コストとなる。
日本では鹿島臨海工業地帯(茨城県)と大阪湾岸石油化学コンビナートが主要候補地として検討されている。経済産業省の「CCS長期ロードマップ」(2023年)では、2030年までに年間600〜1,200万トンのCO2貯留量確保を目標に、北海道・苫小牧沖やその他の地質貯留適地への配管インフラ整備を計画している。石油化学各社は単独ではなく、コンビナート単位での共同CCSインフラ(「カーボンハブ」)構想を検討中だ。
ただしCCSのみで「ネットゼロ」は達成できない点に注意が必要だ。CCSはScope 1の燃焼由来CO2を対象とするが、フィードストック(原料)由来のCO2——製品に炭素として固定され製品廃棄・燃焼時に排出されるScope 3相当——は回収できない。化学製品の真の脱炭素にはバイオ原料・e-ナフサによるフィードストック転換が不可避だ。
日本のクラッカー再編:12基から8基への構造転換
日本の石油化学産業が抱えるもう一つの問題は「規模の非経済」だ。国内には現在12基のエチレンプラントが稼働しており、1基あたりの平均能力は約45万トン/年。これに対し中国の新設プラントは100〜200万トン/年規模で、コスト競争力に根本的な差がある。中国の石油化学の過剰生産能力(エチレン換算で2025年に余剰2,000万トン超と推定)が輸出攻勢となって日本・アジア市場を圧迫している。
この競争環境を受け、日本国内で2024〜2025年に相次いで再編・連携に向けた検討が公表された。旭化成・三井化学・三菱ケミカルの3社は2024年5月8日、西日本地区——岡山県倉敷市の水島地区と大阪府——のエチレン製造設備を対象に、カーボンニュートラル実現に向けた原燃料転換等の共同検討を開始すると発表した。その後、2025年9月以降には事業運営の一体化やLLP(有限責任事業組合)設立といった枠組みへと検討が発展している。三井化学と出光興産は千葉地区のエチレン設備を対象とした協議を進めており、2030年代前半をめどとした12基→8基への集約が射程に入っている。生産規模の集中と老朽設備の廃棄は、同時にCO2排出量の絶対削減にも寄与する。
三菱ケミカルグループは機能材料・ヘルスケアへの事業シフトと石油化学事業の段階的な見直しを進めており、事業ポートフォリオの再構築を経営方針として掲げている。単なる省エネではなく「石油化学事業モデル自体の転換」が日本の大手化学メーカーの基本戦略となってきた。
CBAMの化学品への波及リスク
EU炭素国境調整メカニズム(CBAM)は2026年から本格課金が始まるが、第1フェーズの対象品目(セメント・鉄鋼・アルミ・肥料・電力・水素)には石油化学基礎製品(エチレン・プロピレン等)は含まれていない。ただしEU当局はCBAMの対象品目を2030年頃に拡大する方針を示しており、ポリマー(ポリエチレン・ポリプロピレン)や有機化学品への拡張は石油化学業界の最大リスクシナリオの一つだ。
欧州向け化学品輸出を持つ日本の化学メーカーにとって、CBAM対象拡大に備えた「製品カーボンフットプリント(PCF)」算定体制の整備が急務だ。CBAM申告にはISO 14067準拠の検証済みPCFデータが要求される見込みで、製品ごとの排出係数の可視化・検証対応が2025〜2027年の重要課題となる。
ケーススタディ:三菱ケミカルグループの戦略転換
三菱ケミカルグループは、石油化学基礎製品事業の縮小と機能材料・バイオ材料への集中という方向性を打ち出している。具体的には①西日本地区のエチレン製造設備をめぐる他社との共同検討、②バイオポリマー(バイオMMA等)の商業拡大——などを通じた事業ポートフォリオの再構築を進めている。
同社はGHG排出削減目標として、2030年度までにScope 1+2排出量を2019年度比で29%削減することを掲げている。電気クラッカー・CCS・クラッカー集約の組み合わせで達成を目指すが、「電力価格低下なしに電気クラッカーのコスト競争力は生まれない」との認識を示しており、規制・市場環境の変化に戦略が左右される構造的な難しさを抱えている。
企業が今取るべき5つのアクション
- クラッカー別のCO2排出インベントリの精緻化:燃焼由来(プロセス熱)とフィードストック由来を区別して把握する。CCS・電化それぞれの削減ポテンシャル算定の基盤となる。
- CCS可能性評価の着手:近隣の地質貯留適地やコンビナート単位のCO2ハブ計画を調査する。既存プラントに対して最も早期実装可能なパスウェイであり、2030年目標へのブリッジとなりうる。
- 再生可能電力PPAの長期契約:電気クラッカー移行の前提条件は電力コスト低下。今から20〜25年の長期PPAを確保することで、将来の採算性改善の基盤を築く。
- 製品カーボンフットプリント(PCF)算定の標準化:CBAM拡大・SSBJ対応・取引先要求に備え、ISO 14067準拠のPCF算定・第三者保証体制を2026年度までに整備する。
- 事業ポートフォリオの見直し「どの事業を継続するか」:石油化学基礎事業を2030〜2050年スパンで継続するかどうか、脱炭素コストと中国の競争圧力を踏まえた事業価値評価が経営の最重要議題となっている。投資家への明確な戦略説明も不可欠だ。
まとめ
- ナフサクラッカーの脱炭素には電化・水素・CCSの3つの主要パスウェイがあるが、電気クラッカーは電力価格40〜45ドル/MWh程度以下が採算条件とされ、日本の電力コスト構造では短期的な商業化は困難。
- 現時点で最も実装可能性が高いのはCCS(60〜100ドル/tCO2、エチレン1トン当たり換算で+60〜150ドル程度)だが、フィードストック由来のCO2は回収できないため、真のネットゼロにはバイオナフサ・e-ナフサへの原料転換が不可避。
- 国内クラッカーは12基から8基程度への集約が進む見通しで、設備再編そのものがCO2絶対量削減の主要ドライバーとなる。
- CBAMの対象品目がポリマー・有機化学品へ拡大されるリスクに備え、ISO 14067準拠のPCF算定・第三者保証体制の整備を2026年度までに進めるべき。
- 脱炭素コストと中国の過剰生産能力による競争圧力を踏まえ、石油化学基礎事業を長期的に継続するか否かのポートフォリオ判断と投資家への戦略説明が経営の最重要議題となる。
参考資料
- BASF SE「Electric Steam Cracker Demonstration」Press Release(2024年4月)
- IEA「CCUS in Clean Energy Transitions」— 石油化学CCS事例・コスト推計
- IEA「The Future of Petrochemicals」(2018年)— エチレンCO2原単位
- NEDO「グリーンイノベーション基金:水素プロジェクト」(2024年度)
- 経済産業省「CCS長期ロードマップ」(2023年)
- 経済産業省「石油化学産業の競争力強化に関する研究会報告書」(2024年)
- 三菱ケミカルグループ サステナビリティレポート(2023年)
- IRENA「Green Hydrogen Cost Reduction」(2020年)— グリーン水素コスト低減の見通し
- European Commission、CBAM公式ページ — 対象品目拡大の検討状況
- 三井化学・出光興産「石油化学事業再編に関する検討開始」(プレスリリース、2024年)
- 旭化成・三井化学・三菱ケミカル「西日本におけるエチレン製造設備のカーボンニュートラル実現に向けた3社連携の検討開始について」(プレスリリース、2024年5月8日)