(本稿の情報は2026年10月時点)
この記事の結論
- GHG プロトコルは再計算の重要性の閾値に数値を置かないため、企業が閾値を設定し一貫適用し開示する三点を自ら揃えるほかなく、規程がなければ進捗率は案件ごとの裁量に見える。
- 絶対量目標では基準年の水準そのものが達成度を決めるため、構造変化を反映しない削減率は削減努力と事業ポートフォリオ変化が混在した数字に過ぎない。
- M&A のクロージング後に判定を始めると SBTi の再提出リードタイムに間に合わないため、DD の情報要求に基準年相当年度のエネルギーデータを入れる設計が合理的だ。
事業を買えば排出量は増え、売れば減る。基準年を直さなければ目標達成は買収で遠のき、売却で近づく。この非対称性は、絶対量削減目標を掲げる企業の IR において構造的な説明責任を生む。「どの規模の構造変化なら基準年を直すのか」を案件発生後に決めれば、進捗率は後付けの裁量に見える。閾値を先に文書化しておくことが、開示と第三者保証の両方で効いてくる。
買収で目標が遠のき、売却で近づくという構造
SBTi が Scope 1+2 の近接期目標として標準的に求める形式は、基準年比の絶対量削減である。1.5℃ 整合の絶対収縮アプローチでは年率 4.2% 相当の線形削減経路が長く用いられてきた。原単位目標ではないため、分母の売上や生産量が変わっても目標値は動かない。動くのは基準年排出量という一点だけだ。
ここに M&A が入ると何が起きるか。基準年 2020 年度の Scope 1+2 が 100 万 t-CO2e、2030 年度目標が 58 万 t-CO2e(基準年比 -42%)の企業が、2026 年度に年間 15 万 t-CO2e を排出する事業を買収したとする。基準年を直さなければ、目標達成に必要な削減量は実質的に 15 万 t 増える。逆に 15 万 t の事業を売却すれば、何もせずに基準年比の削減率が 15 ポイント改善する。以下、進捗の指標は「基準年排出量に対する削減率(%)」で統一し、ポイント表記はこの削減率のポイント差を指す。この定義を置かないまま「進捗率」と書く開示は、読者が目標達成度との関係を復元できない。
投資家とアナリストはこの分解を求める。開示された基準年比 -30% という削減率が、オーガニックな削減(省エネ投資、再エネ調達、燃料転換)によるものか、事業売却によるものか、排出係数の更新による見かけ上の減少かは、企業価値評価において意味がまったく違う。売却による減少は地球上の排出量を一切減らしていないからだ。
| 変動要因 | 基準年再計算の対象か | 大気中 CO2 への影響 | 投資家の評価軸 |
|---|---|---|---|
| 省エネ投資・燃料転換 | 対象外 | 削減される | 削減実績として評価 |
| 再エネ電力への切替(market-based) | 対象外 | 契約次第(追加性が論点) | 調達方針の質を精査 |
| 事業売却・持分譲渡 | 対象(重要性を満たせば) | 変化しない | 再計算なしは減点 |
| 企業・事業の買収 | 対象(重要性を満たせば) | 変化しない | 再計算なしは進捗の過小評価 |
| 排出係数・算定方法の改善 | 対象(重要性を満たせば) | 変化しない | 遡及修正の有無を確認 |
| 自社による新工場建設・工場閉鎖 | 対象外(オーガニック変化) | 変化する | 事業成長との両立度で評価 |
| 生産量の増減 | 対象外 | 変化する | 原単位の併記を要求 |
出典:Climate tech news(CTJPN)試算(前提は本文。再計算の対象区分は GHG プロトコル Corporate Standard 第5章の分類に基づく)
表の切り分けで最も事故が起きやすいのは最下部の 2 行である。自社で建てた新工場は構造変化ではなくオーガニックな成長であり、これを理由に基準年を膨らませると、保証業務の過程で再計算事由への該当性を問われる。買収した工場と自社新設の工場は、操業実態が同じでも扱いが異なる。
GHG プロトコルが定める再計算の引き金
GHG プロトコル Corporate Accounting and Reporting Standard(改訂版)の第 5 章「Tracking Emissions Over Time」が、基準年排出量の再計算を要する事由を整理している。ひとつめは組織境界の構造的変化であり、企業・事業・資産の買収、売却、持分の移転が含まれる。アウトソーシングとインソーシングも同章で扱われるが、ここには条件が付く。外部委託によって自社の直接排出が間接排出へ移るだけで、その間接排出を Scope 2 または Scope 3 として報告し続けている場合、企業全体の報告範囲は変わらないため基準年の再計算を要しないという整理が同章に置かれている。Scope 3 を算定・開示している企業では、物流の外部委託化が自動的に再計算事由になるわけではない。この点は無条件に「再計算する」と運用すると誤りになるため、自社の報告範囲と突き合わせて判定するのが正しい。
ふたつめは算定方法、排出係数、活動量データの改善による変更である。推計値から実測値への置き換え、電力の排出係数の更新、GWP 値の改定(IPCC 第 5 次報告書から第 6 次報告書への移行など)が該当する。みっつめは過去の誤りの発見、または単独では小さいが累積すると全体として重要になる複数の誤りだ。
逆に明示的に再計算しないとされているのが、オーガニックな成長と縮小である。生産量の増減、製品ラインの自社立ち上げ、自社建設による設備の新設、既存設備の閉鎖はいずれも構造変化に当たらない。ここを混同すると、都合のよいときだけ基準年を動かしているという疑いを招く。
連結方式の選択も判定を変える。支配力基準(財務支配力または経営支配力)を採る企業は 100% 連結子会社化した時点で全量を取り込むが、出資比率基準を採る企業は持分割合に応じて取り込むため、同じ案件でも変動量が異なる。持分 25% の取得は、出資比率基準では排出量の 25% が加算されるが、支配力基準では支配が及ばない限り Scope 1+2 には入らず Scope 3 カテゴリ 15(投資)の扱いになる。
| 事象 | 原則 | 条件・判定根拠 | 実務上の注意 |
|---|---|---|---|
| 子会社株式 100% 取得 | 再計算する | 組織境界の構造的変化(原典根拠) | 基準年から直近年まで全年度を遡及 |
| 事業部門の譲渡(カーブアウト) | 再計算する | 同上(原典根拠) | 共通設備の按分根拠を文書化 |
| 持分 25% の取得(支配力基準) | Scope 1+2 は再計算しない | 支配が及ばない(原典根拠) | Scope 3 カテゴリ 15 で検討 |
| 持分 25% の取得(出資比率基準) | 再計算する | 持分相当を取り込む(原典根拠) | 方式の一貫適用が前提 |
| 自社物流の外部委託化 | 報告範囲次第 | 移転後の排出を Scope 3 で報告していれば再計算不要(原典根拠) | 報告範囲の変化有無を記録 |
| 自社による新工場稼働 | 再計算しない | オーガニックな成長(原典根拠) | 総量増は削減経路で吸収 |
| 工場閉鎖・生産停止 | 再計算しない | オーガニックな縮小(原典根拠) | 削減実績として開示可 |
| 電力排出係数の年次更新 | 自社規程の方針次第 | 算定方法の変更に該当しうる(編集部解釈) | 係数改定の遡及方針を規程化 |
| GWP 値の改定への対応 | 再計算する | 算定方法の変更(原典根拠) | 全年度一律で置き換え |
| 過去データの誤記の発見 | 重要性次第 | 累積して重要なら修正(原典根拠) | 累積判定を規程で定義 |
出典:Climate tech news(CTJPN)整理(原典根拠と記した行は GHG プロトコル Corporate Standard 第5章の記述に基づく。編集部解釈と記した行は規格の分類を日本の実務に当てた判断)
重要性の閾値を数値で決める — 規程に書くべき項目
GHG プロトコルは、再計算を要する重要性の閾値について具体的な数値を指定していない。企業が自ら閾値を設定し、一貫して適用し、その閾値を開示することを求める構成になっている。つまり閾値は探すものではなく、決めて文書化するものだ。慣行として基準年総排出量の 5% を採用する企業が多いとされるが、これは規格で定められた数値ではない。
ただし自社で自由に決められる範囲には上位の制約がある。SBTi の目標を保有する企業は、組織境界や基準年排出量に重要な変化が生じた場合の目標の再評価・再提出について SBTi 側の要件に従う二層構造になる。GHG プロトコルが数値を置かないことと、SBTi 目標保有企業が完全に自由であることは同じではない。自社規程の閾値を定めるときは、SBTi の目標設定基準および目標の妥当性に関する要件の最新版を確認し、規程がそれと矛盾しない設計にしておくのが安全だ。
規程に落とすべき要素は限られている。判定指標として基準年総排出量に対する変動率を使うのか絶対量(t-CO2e)を使うのか。Scope 1+2 と Scope 3 で別の閾値を置くのか。Scope 3 は総量が大きく推計精度も低いため、Scope 1+2 と同じ水準を当てると小規模案件で頻繁に再計算が発生する。単年度の変動で判定するのか複数年の累積で判定するのか。小規模案件を毎年積み上げる買収戦略を採る企業では、単年度判定だけでは永久に閾値に届かない。判定の基準日をクロージング日とするのか会計上の連結開始日とするのか。そして遡及期間を基準年から直近年までの全年度とするのか、直近数年に限るのか。
| 規程項目 | 記載例 | 設定の論点 |
|---|---|---|
| 判定指標(Scope 1+2) | 基準年 Scope 1+2 総量に対する変動率 5% 以上 | 絶対量併記で小規模高排出案件を捕捉 |
| 判定指標(Scope 3) | 基準年 Scope 3 総量に対する変動率 10% 以上 | 推計精度を踏まえ Scope 1+2 より緩く設定 |
| 累積判定 | 直近 3 年間の構造変化を累積して判定 | 連続小型買収の取りこぼし防止 |
| 判定基準日 | 会計上の連結開始日が属する報告年度 | 財務報告との整合を優先 |
| 遡及期間 | 基準年以降の全報告年度を再計算 | 進捗経路の連続性を確保 |
| データ不足時の扱い | 業界平均値で暫定算定し 2 年以内に実測へ移行 | 保証での限定事項を避ける |
| 閾値未達案件の扱い | 再計算せず、翌年度の開示で変動量を注記 | 透明性の確保 |
出典:Climate tech news(CTJPN)試算(前提は本文。数値は規程設計の例示であり、規格が定めた値ではない)
閾値を高く置くか低く置くかのリスクは非対称である。高く置けば再計算の頻度は下がるが、閾値未満の案件が積み上がると削減率に構造変化の影響が静かに溜まる。アナリストが個別の M&A と排出量推移を突き合わせたとき、都合のよい案件だけ反映していると読まれる余地が生まれる。逆に低く置けば、ほぼ毎年の再計算と、売却済み事業の過去データの再収集という遡及コストが発生する。買収先の基準年(たとえば 6 年前)のデータを取得できないケースは珍しくなく、暫定推計を使えば保証報告書に限定事項が付きうる。日本企業のサステナビリティ情報に対する保証は国際的には ISSA 5000 系の基準が参照される局面が増えており、算定方針の文書化の有無は保証手続の対象になる。
設計上の落としどころは、Scope 1+2 を厳しめ、Scope 3 を緩めに置き、累積 3 年判定を併用する非対称な構成にある。買収の規模が小さく頻度が高い企業ほど累積判定の価値が高い。
SBTi の審査・再提出との接続
SBTi の企業向け基準(Corporate Net-Zero Standard および目標設定基準)では、基準年排出量や組織境界に重要な変化が生じた場合、目標の再評価と、場合により再提出が求められる。2026 年 10 月時点では Net-Zero Standard の次世代版への移行プロセスが進行しており、近接期目標の算定要件や目標の有効期間に関する規定は版によって異なる。自社の目標がどの版の基準で認定されたか、そして再提出時にどの版が適用されるかを SBTi の公表資料で確認するのが前提になる。基準年を直すだけで済むか、目標水準自体を引き直すかの境界が実務の焦点だ。
基準年排出量が変わっても、削減率が 1.5℃ 整合の最低水準を満たしていれば、目標値を新しい基準年排出量に掛け直すだけで整合性は維持される。これが再計算のみで足りるケースである。一方、セクター別脱炭素アプローチ(SDA)を使う企業が異業種を買収すると、適用すべきセクター経路そのものが変わりうる。鉄鋼メーカーが物流事業を取り込めば、セクター別の原単位目標の対象範囲が変質する。この場合は目標の再設定と再提出になる。
| 構造変化の規模 | 対応レベル | 想定リードタイム | 想定外部費用(試算) |
|---|---|---|---|
| 自社規程の閾値未満 | 再計算なし。変動量を注記開示 | 1 か月以内 | 0 円(社内工数のみ) |
| 閾値以上〜基準年 Scope 1+2 比 25% 未満 | 基準年再計算。目標値を再計算し開示 | 3〜6 か月 | 数百万円規模(算定支援) |
| 25% 以上(同業種) | 基準年再計算+目標の妥当性再評価 | 6〜12 か月 | 1,000 万円規模(算定+保証追加手続) |
| 25% 以上(異業種・手法変更を伴う) | 目標の再設定・SBTi への再提出 | 9〜18 か月 | 1,000 万円超(審査フィー+外部支援) |
| 主要事業の売却で業種分類が変わる | 目標の再設定・再提出 | 9〜18 か月 | 同上 |
出典:Climate tech news(CTJPN)試算(前提は本文。区分・リードタイム・費用はいずれも編集部の推計であり、SBTi が公表した閾値や料金表ではない。費用は対象会社 1 社・遡及 5 年程度を想定)
このリードタイムが M&A のスケジュールと衝突する。クロージングから 12 か月後の統合報告書で新しい目標を開示したい場合、再提出が必要なら審査期間を逆算してクロージング前に準備を始めなければ間に合わない。SBTi はバリデーションサービスの標準所要期間を公表しており、申請の混雑状況によって変動する。クロージング後に判定を始める運用は、構造的に間に合わない。
M&A プロセスに再計算判定を組み込む
デューデリジェンス段階で取得すべき情報は、対象会社の直近年度の Scope 1+2 実績に限らない。自社の基準年(たとえば 2020 年度)に対応する年度の活動量データが残っているかどうかが、遡及可能性を決める。残っていなければ暫定推計に頼ることになり、保証の品質が落ちる。DD の情報要求リストに「基準年相当年度のエネルギー使用量実績」を明記するだけで、クロージング後の工数は大きく変わる。買収後に電力・燃料の購買記録を探索する作業と、DD で一括取得する作業では、数か月単位の差が出る。
サイニングからクロージングまでの期間に、再計算方針規程に基づく閾値判定を済ませておく。判定結果が目標再提出に該当するなら、クロージング前に SBTi への確認と検証機関の確保に動く。クロージング後は、対象会社のデータ収集体制を自社の算定フローに接続し、基準年から直近年までの全年度を再計算する。再計算の結果は、再計算前の数値、再計算後の数値、差分、差分の要因を並べて開示する形が、保証と IR の双方で最も摩擦が少ない。
課題・反論・代替視点
再計算を厳密にやるほど目標は動く目標になり、時系列の比較可能性が損なわれるという批判には根拠がある。毎年基準年が動けば、過去の開示値と今期の開示値が接続しない。この問題への実務的な回答は、再計算の履歴を一覧で開示し、各年度の数値がどのバージョンの基準年に基づくかを明示することだ。手間は増えるが、数値が動く理由が読めるようになる。
より本質的な反論は、そもそも絶対量目標と M&A の併存が無理筋だという視点である。成長を買収で実現する企業にとって、絶対量目標は事業戦略への制約になる。原単位目標なら構造変化に強いが、SBTi は Scope 1+2 について絶対量目標を原則としており、原単位目標が認められる範囲は限定的だ。この緊張関係は規程では解けない。解けるのは、買収先の脱炭素化コストを投資判断に織り込むことだけである。買収価格に将来の脱炭素投資額を反映させる実務は、カーボンプライシングが本格化する局面で経済合理性を持つ。
閾値を文書化することが逆に硬直化を生むという指摘もある。5% と書けば 4.9% の案件は反映されない。この硬直性は、閾値未達案件についても変動量を注記開示する運用を併用することで緩和できる。再計算はしないが数字は見せる、という中間解である。
もう一つの限界は、Scope 3 の再計算が多くの企業で実質的に不可能な点だ。サプライヤー別の実測データを基準年まで遡って再構成できる企業はごく少ない。支出ベースの推計で算定している企業は、買収先の調達額を基準年の係数で掛け直すことになり、精度の議論に意味が薄い。Scope 3 については、再計算の完全性よりも方法の一貫性と前提の開示を優先する判断が現実的だ。
日本市場・日本企業への示唆
日本企業に固有の論点は、SSBJ が 2025 年 3 月に公表したサステナビリティ開示基準(適用基準・一般開示基準・気候関連開示基準)の義務適用が、有価証券報告書という法定開示の枠組みのなかで段階的に始まる設計が確定している点である。金融庁の制度整備により、プライム市場の時価総額の大きい企業から順に適用対象が広がる設計が示されており、適用初年度は企業区分ごとに異なる。2026 年 10 月時点で全面的な義務適用に到達しているわけではないが、基準年再計算の方針と実績は、任意の統合報告書ではなく法定開示書類の記載事項として扱われる方向にある。法定開示書類に載る数値であれば、算定方針の規程が存在しないことは開示統制・開示体制の整備状況として問われる。海外のボランタリー開示を前提とした実務をそのまま持ち込めない理由がここにある。保証についても、日本でサステナビリティ情報に対する保証制度の整備が進んでおり、導入時期・対象・水準は金融庁の公表資料で確認するのが前提だ。
日本固有の条件として重いのが Scope 2 の電力排出係数である。小売電気事業者別の基礎排出係数・調整後排出係数は環境省・経済産業省が温対法の算定・報告・公表制度に基づき年次で公表しており、係数の改定は毎年発生する。これを基準年に遡及させるかどうかは GHG プロトコルの「算定方法の変更」に該当しうるが、全企業が一律に遡及すれば日本全体の基準年が毎年動く。実務では、係数の年次更新は遡及させず、算定手法の変更(location-based から market-based への移行など)のみ遡及させる方針を規程に明記する運用が整合的だ。この判断を文書化していない企業は、保証の過程で根拠を示せない。
排出量取引との接続も日本の再計算実務を左右する。GX リーグの枠組みを引き継ぐ GX-ETS は、参加企業の過去の排出実績を出発点に目標・割当を設定する構造を持つ。制度の詳細な設計と適用開始時期は経済産業省および GX リーグの公表資料で確認する前提だが、事業譲渡や買収によって対象事業所が移動した場合、排出実績の帰属と目標・割当の承継をどう扱うかが論点になる。GHG プロトコル上の基準年再計算と、制度上の基準排出量の扱いは必ずしも一致しない。両者を別の台帳として管理し、同じ案件が双方でどう反映されるかを対応表で持つ企業が、制度と目標の整合を保ちやすい。カーボンプライシングが本格化すれば、基準年の数値は開示項目であるだけでなく費用の起点になる。
日本企業の事業ポートフォリオ再編では、非中核事業のカーブアウトと譲渡が広く行われている。売却によって排出量が減る局面が多いということは、再計算を怠れば見かけの進捗が積み上がる構造にあるということだ。買収主体で排出量が増える方向の企業とは、リスクの向きが逆になる。
商社やコングロマリットでは、連結方式の選択がさらに重く効く。多数の持分法適用会社を抱える構造では、出資比率基準を採ると持分変動のたびに再計算判定が走る。支配力基準に統一し、非支配の投資を Scope 3 カテゴリ 15 で扱う方が判定の頻度は下がる。ただしカテゴリ 15 の算定は投資先データの取得が難しく、負担がそちらに移るだけでもある。どちらを採るかは、投資ポートフォリオの回転率で決まる。
まとめ
基準年再計算は技術論に見えて、実質は開示ガバナンスの問題である。GHG プロトコルが重要性の閾値に数値を置かなかったことは、裁量を企業に委ねたのではなく、設定と一貫適用と開示という三点セットを企業に課したという意味だ。規程がないまま案件ごとに判定すれば、たとえ個々の判断が妥当でも、外形的には恣意的に見える。SBTi の目標審査でも第三者保証でも問われるのは、判断の結論ではなく判断の枠組みが先にあったかどうかである。SBTi の目標を持つ企業は、自社規程の上に SBTi 側の要件が乗る二層構造を前提に規程を設計することになる。
実務の設計としては、Scope 1+2 と Scope 3 に別の閾値を置き、累積判定を併用し、判定基準日と遡及期間を明文化する構成が、負荷と説明力のバランスで優位にある。閾値未達案件も変動量を注記する運用を組み合わせれば、硬直性の問題も相当程度まで緩和できる。外部委託のように報告範囲次第で結論が変わる事由があることも規程に書き込んでおけば、現場の判定が原典と乖離しにくい。そして M&A プロセスの側では、DD の情報要求リストに基準年相当年度のエネルギーデータを入れることが、最もコストが低く効果が大きい一手だ。クロージング後に遡及データを探し始める企業と、DD で確保する企業の差は、再計算の精度と保証の限定事項の有無に直結する。
SSBJ 基準の義務適用が法定開示のなかで段階的に進み、GX-ETS とカーボンプライシングで排出量が直接的な費用項目になる局面では、基準年の整合性は会計の整合性と同じ重みを持つようになる。今後 2〜3 年で、再計算方針を社内規程として整備し開示体制に組み込んだ企業と、算定担当者の判断に委ねたままの企業との間で、開示の信頼性と資本コストの評価が分かれる分水嶺を迎える。
主要出典
- GHG Protocol, A Corporate Accounting and Reporting Standard (Revised Edition), Chapter 5 “Tracking Emissions Over Time”(基準年の設定、基準年排出量の再計算、重要性の閾値、アウトソーシング/インソーシングの扱い) — https://ghgprotocol.org/
- GHG Protocol, Corporate Value Chain (Scope 3) Accounting and Reporting Standard(カテゴリ 15「投資」の算定、Scope 3 の基準年再計算) — https://ghgprotocol.org/
- Science Based Targets initiative, Corporate Net-Zero Standard および企業向け目標設定基準(目標の再評価・再提出、絶対収縮アプローチ、SDA の適用範囲) — https://sciencebasedtargets.org/
- Science Based Targets initiative, バリデーションサービスに関する公表資料(標準所要期間・審査フィー) — https://sciencebasedtargets.org/
- サステナビリティ基準委員会(SSBJ), サステナビリティ開示基準(適用基準・一般開示基準・気候関連開示基準、2025年3月公表) — https://www.ssb-j.jp/
- 金融庁, サステナビリティ情報の開示および保証に関する制度整備関連資料(適用対象区分・適用開始時期) — https://www.fsa.go.jp/
- 環境省・経済産業省, 電気事業者別排出係数(基礎排出係数・調整後排出係数、温対法 算定・報告・公表制度) — https://www.env.go.jp/
- 環境省, サプライチェーンを通じた温室効果ガス排出量算定に関する基本ガイドライン(Scope 3 の算定方法と一貫性の要請) — https://www.env.go.jp/
- 経済産業省, GX リーグ・GX-ETS 関連資料(排出実績に基づく目標設定、制度設計) — https://gx-league.go.jp/
- 経済産業省, GX 推進およびカーボンプライシングに関する制度資料 — https://www.meti.go.jp/
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