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生物多様性クレジット市場の現状 — ネイチャーベースドソリューションの収益化可能性

「炭素より10年遅れた市場」で先行者が取りにいくポジション — 価格形成前夜の投資判断フレーム

生物多様性クレジット市場は、実売上ベースの年間取引規模がボランタリーカーボン市場の1%にも満たない。それでも大手企業と金融機関が案件を確保し始めている。まだ価格形成メカニズムが存在しない市場に、なぜ資本が動くのか。「未成熟=参入不可」ではなく「未成熟=原価で仕込める期間」として、収益化タイミングを逆算する。


市場規模の実像 — 「期待値」と「実取引額」のギャップを直視する

Climate Collectiveの整理によれば、生物多様性クレジットの実売上規模は年間1,000万ドル前後の推計にとどまり、BloombergNEFが捕捉した取引額は約800万ドルだった。一方、World Economic ForumやPollinationが示す2030年前後の市場予測は数十億ドル規模である。この間には2桁以上の乖離がある。

乖離を「成長余地」と読むのは誤りだ。予測値は「制度導入が起きた場合の条件付き期待値」であって、現在の取引実績を外挿したものではない。制度が来なければ、予測の分母そのものが存在しない。

比較対象を置くと解像度が上がる。ボランタリーカーボン市場(VCM)は年間取引額が10億ドル規模で推移してきた。生物多様性クレジットはその1%未満である。つまり現在の生物多様性市場は、VCMでいえばCDM初期——2000年代半ばの水準にある。

項目 ボランタリーカーボン市場 生物多様性クレジット市場
年間取引額(直近) 10億ドル規模 1,000万ドル前後(推計)
発行主体 VCS/GS/ACR等の主要標準が寡占 多数の方法論・スキームが並存
単価レンジ 1〜50ドル/tCO2(種別で乖離大) 案件ごとの相対取引、公開価格ほぼなし
コンプライアンス需要 EU-ETS、CORSIA、GX-ETS等 英国BNG等の局地的義務のみ
取引所上場 あり(CBL、ACX等) 実質なし
市場発展段階(筆者推計) 成熟初期 黎明期(VCMの2000年代半ば相当)

表1:市場規模データ比較(複数機関公表値の整理。生物多様性側は統一統計が存在せず、推計値の幅が大きい)

より重要なのは、取引の中身だ。現在成立している取引の大半はパイロット案件・実証プロジェクトであり、同一バイヤーによるリピート購入の実績が薄い。売上の継続性が構造的に担保されていない。したがってこの資産クラスをDCFで評価すると、ほぼ確実に過大評価になる。

事業として妥当な評価軸はオプション価値——「制度化が起きたときに行使できる権利を、いくらで買えるか」だ。制度化確率をp、制度化後のクレジット価値をV、今の仕込みコストをCとしたとき、p×V > Cが成立するかどうか。この単純な式が投資判断の骨格になる。pを高く見積もりたくなる誘惑を抑え、Cを圧縮できる案件だけを拾う。それが黎明期の唯一の勝ち筋だ。

構造としてはカーボン市場の1990年代後半から2000年代初頭と酷似している。自主的取引が先行し、方法論が乱立し、制度接続が起きて価格が形成される。ただしカーボンと決定的に異なる点がある。それが次章の主題だ。


誰が買っているのか — 需要側の4類型と支払い動機の分解

「市場ができるか」を議論する前に、「いま誰が金を払っているか」を見たほうが早い。需要主体は4類型に分解できる。

類型 主体例 支払い動機 予算源泉 継続性評価
①TNFD開示対応企業 大手製造・エネルギー 開示ストーリーの補強 サステナビリティ予算 低(景気連動で削減対象)
②自然依存サプライチェーン企業 食品・化粧品・アパレル 原材料調達の物理リスク低減 調達・原材料予算 高(事業継続に直結)
③金融機関のポートフォリオ対応 銀行・アセットマネージャー 投融資先の自然関連リスク管理 リスク管理/CSR予算 中(規制動向次第)
④開発事業者のオフセット義務 不動産・インフラ 法的義務の履行(BNG等) 開発事業原価 最高(義務なので不可避)

表2:需要側4類型と支払い動機・予算源泉・継続性評価

このうち収益の確実性が高いのは④だけだ。英国のBiodiversity Net Gain(BNG)は2024年2月12日から新規開発案件に10%の生物多様性純増を法的に義務づけ、小規模サイトには同年4月2日から適用された。開発事業者は自地内で達成できない分をオフサイトのユニット購入で埋める。ここには「買わなければ開発許可が下りない」という強制力がある。他の3類型は、経営環境が悪化すれば真っ先に削られる予算費目だ。予算費目が確定していない支出に、長期の供給契約を期待するのは楽観的すぎる。

ただし義務需要も自動的には拡大しない。英国では大規模インフラ事業(NSIPs)へのBNG適用が当初計画から後ろ倒しされ、2026年5月からの施行として整理された。制度は前進するが、事業者が想定するタイムラインより遅れる。この遅延リスクを織り込まない収支計画は、キャッシュフローの立ち上がりを1〜2年見誤る。

支払い動機をさらに解剖すると、もう一段厄介な事実が見える。企業が買っているのは「クレジット」ではなく「ストーリーとサプライチェーンへの関与」だ。成立している取引の相当部分がinsetting——自社バリューチェーン内での自然再生投資——であり、汎用クレジットとして第三者に転売できない設計になっている。カカオ農園周辺の森林再生に投資する菓子メーカーにとって、その投資は自社の調達リスク低減とストーリーテリングのための資産であって、流動性のある金融商品ではない。

これは価格形成にとって致命的だ。転売不可能な資産には二次市場が立たない。二次市場がなければ価格発見も起きない。市場が「取引されるほど価格が定まる」という自己強化ループに入れないまま、相対取引の集積にとどまる。

CFOの視点で整理すると、判断軸は明快になる。その案件のキャッシュフローはサステナビリティ予算に紐づくのか、それとも調達・原材料予算に紐づくのか。前者は削減余地のある裁量的支出で、景気後退局面で消える。後者は事業運営に組み込まれた原価であり、削られにくい。景気耐性を持つのは後者に紐づく案件だけだ。②と④を狙い、①と③は上乗せ需要として扱う。これが需要側から逆算した案件選別の第一原則になる。


なぜ価格がつかないのか — 生物多様性がCO2と決定的に異なる構造

ここが分析の中核だ。生物多様性クレジットに価格がつかない理由は「市場が若いから」ではない。CO2との構造的差異に根ざしている。

非代替性

CO2は1トンがどこで削減されても大気中濃度への効果が等価だ。この完全代替性が、地理を越えた裁定取引を可能にし、単一の価格を生む。インドネシアで削減された1トンとブラジルで削減された1トンが同じ商品として扱えるからこそ、取引所が成立する。

生物多様性にこの性質はない。ボルネオのオランウータン生息地1ヘクタールと、スコットランドの泥炭湿原1ヘクタールは、生態学的に別物であり相互に代替できない。オランウータンの絶滅を泥炭地の再生では埋め合わせられない。地理的裁定が原理的に働かず、単一計量単位が成立しにくい。「取引所型市場」の成立を妨げる最大要因はここにある。

Biodiversity Credit Allianceが繰り返し強調しているのも、生物多様性クレジットはカーボンクレジットのようなオフセット手段としては設計されていない、という点だ。市場の設計思想そのものが、代替性を前提としていない。

計量単位の非統一

ヘクタール×年、種の豊かさスコア、生息地条件単位、生態系完全性指数——複数の計量手法が並存し、相互換算の公式が存在しない。英国BNGのbiodiversity unitと、南米の熱帯林プロジェクトが発行するクレジットを、バイヤーは同じ物差しで比較できない。比較できないものには価格発見が起きない。

豪州のNature Repair Marketは、この非統一性への一つの回答として設計されている。1プロジェクトにつき1つのbiodiversity certificateを発行し、証明書ごとに固有のプロジェクト情報を紐づける方式だ。permanence期間は25年または100年から選択する。標準化された単位に押し込むのではなく、個別性を残したまま登録簿で管理する。ただしこの設計は流動性を犠牲にしている。1証明書1プロジェクトである以上、証明書は互換性を持たない。

比較軸 カーボンクレジット 生物多様性クレジット
計量単位 tCO2e(世界共通) 複数並存、相互換算不能
代替性 完全(地理無関係) 極めて低い(ローカル固有)
裁定取引 成立する 原理的に成立しない
義務需要 EU-ETS等で大規模に存在 英国BNG等の局地的義務のみ
MRV手法 リモートセンシング+標準式で確立 eDNA・音響モニタリング等が発展途上
二次市場 存在(取引所・ブローカー) 実質不在
価格の下支え コンプライアンス価格が床を形成 床なし(相対交渉のみ)

表3:カーボンクレジット vs 生物多様性クレジット 構造比較マトリクス

義務需要の不在

カーボン市場が離陸できた決定的要因は、コンプライアンス市場の存在だった。EU-ETSの排出枠価格が実質的な価格の下限を作り、ボランタリー市場もその参照点の周囲で値付けされた。義務が価格を生み、価格が供給を呼び、供給が市場を作る。この順序は逆転しない。

生物多様性側で義務需要が存在するのは、英国BNG、一部の米国州レベルのミティゲーション・バンキング程度にとどまる。豪州のNature Repair Marketは、しばしば義務市場と誤解されるが、環境省(DCCEEW)が明示している通り自主的な市場である。買い手に購入義務はない。世界全体では需要の圧倒的多数が自主的性質にあり、価格の床がない。義務化こそが価格形成のトリガーだ。

これらの障壁の解けやすさは同じではない。計量単位の非統一は、方法論の淘汰と国際的な標準化イニシアチブの進展によって、5年程度で相当に緩和されると見るのが合理的だ。OECDやBiodiversity Credit Allianceが進める整理は、その方向に働く。義務需要の不在は、各国の法制度改正次第であり、時間軸は読みにくいが、少なくとも英国という前例がある。

最も解けにくいのは非代替性だ。これは制度設計の問題ではなく生態学の問題であり、政策で解消できる性質のものではない。したがって「生物多様性クレジットがカーボンクレジットのような取引所型市場になる」というシナリオは、収支計画の前提から外すのが妥当だ。現実的な着地点は、地域単位・生態系単位に分断された複数の準市場が、それぞれ独自の価格帯を形成する姿である。


収益化のポジションと、参入タイミングの逆算

以上を踏まえると、今この市場で取りにいく価値のあるポジションは限られる。

第一は、義務市場の供給側だ。英国BNGのように法的強制力が確定している地域で、ユニット供給用の土地を確保する。買い手には購入以外の選択肢がないため、価格交渉力は供給側にある。参入コストは土地取得価格に規定され、pがほぼ1に近い分、オプション価値の計算が最も単純になる。NSIPs適用の後ろ倒しが示すように施行時期のブレはあるが、施行されないシナリオは考えにくい。

第二は、insetting案件の設計・運営を担う位置だ。転売不可能ゆえに二次市場は立たないが、逆に言えば価格が市場に晒されない。バイヤーの調達予算に紐づく以上、支払い継続性は高く、クレジット価格の下落リスクから遮断されている。汎用市場が立たなくても成立する数少ないビジネスモデルである。

第三は、MRVインフラの提供だ。eDNA解析、音響モニタリング、衛星画像による生息地評価——どの方法論が生き残るにせよ、測定は必ず必要になる。方法論の淘汰に賭けるのではなく、淘汰の結果に依存しない層で収益を取る。カーボン市場でも、標準の勝ち負けとは無関係にMRV事業者が安定的に収益を上げてきた。

逆に避けるべきは、汎用ボランタリークレジットの大量発行を前提とした事業計画だ。価格の床がなく、二次市場がなく、リピート購入の実績も乏しい。在庫を積んだ瞬間に評価損リスクを抱える。この領域は、義務需要が広がるまで待つ方が合理的だ。


課題・反論・代替視点

最大の障壁は測定である。炭素はCO2換算トンという単一指標に還元できるが、生物多様性は種構成・生息地の質・生態系機能が地域ごとに固有であり、代替可能性(fungibility)が成立しにくい。指標の乱立は価格比較を困難にし、市場の流動性を削ぐ。

第二に信認の問題がある。ボランタリー炭素市場が過大評価クレジットの発覚によって短期間で信頼を失った経緯は、そのまま先行事例となる。「オフセット」という枠組み自体が開発の免罪符として機能し、回避・最小化の努力を後退させるとの批判は根強い。

第三に需要の脆弱さ。TNFDは開示枠組みにすぎず購入義務を伴わないため、需要は企業の自発性に依存し、景気や規制動向に左右されやすい。

さらに、市場化そのものへの反論も存在する。生物多様性に有害な補助金の改革や課徴金による直接規制のほうが費用対効果は高いという指摘、そして土地を実際に管理してきた先住民・地域社会への便益配分が制度的に担保されなければ、収益の大半が仲介者に滞留するという懸念である。

日本市場・日本企業への示唆

日本企業の立ち位置は非対称である。TNFDの早期採択を表明した企業数は日本が世界最多であり、自然関連の開示という点では明らかに先行している。一方、開示した依存・影響を埋め合わせる手段としてのクレジットは、国内に取引可能な形では存在しない。制度として動いているのは30by30ロードマップに基づく自然共生サイト(OECM)の認定と、2024年に取りまとめられたネイチャーポジティブ経済移行戦略であり、いずれも認定と方針であって、単位化され売買される資産ではない。

ここから導かれる実務上の示唆は、買い手として市場の立ち上がりを待つのではなく、原資産の保有者としての位置を先に固めることだ。社有林、工場緑地、遊休地、休耕地といった自社が管理する土地は、指標の測定方法とベースライン、第三者検証の枠組みを整えておけば、方法論が収斂した局面でそのまま供給側の資産になる。逆に、国際的な方法論も価格形成も未確定な段階で高値のクレジットを取得する合理性は乏しく、購入実績が将来の基準変更で無価値化するリスクを負う。

前提として押さえるべきは、生物多様性が場所固有の価値であり、炭素のように別の場所での増加が自社の減少を相殺するという論理が成立しにくい点である。海外クレジットの購入より、国内サプライチェーン上流での具体的な保全支出のほうが、説明責任の観点では一貫性を保ちやすい。

まとめ

生物多様性クレジット市場の実売上は年間1,000万ドル前後の推計にとどまり、2030年予測との間には2桁以上の乖離がある。この乖離は成長余地ではなく、制度化が起きるかどうかという条件付き確率を映したものだ。DCFではなくオプション価値で評価し、制度化確率と仕込みコストの比較で判断する。それが黎明期の資産クラスに対する唯一まともな向き合い方である。

価格が形成されない理由は市場の若さではなく、非代替性という生態学的な性質にある。CO2と違い、生物多様性は地理的裁定が原理的に働かない。計量単位の非統一は標準化で緩和され、義務需要の不在は法制度で埋められるが、非代替性だけは政策で解消できない。したがって単一のグローバル取引所が立つシナリオは前提から外し、地域ごとに分断された準市場が並存する姿を想定するのが現実的だ。

収益化の勝ち筋は、義務市場の供給側、insetting案件の設計・運営、そしてMRVインフラの3つに絞られる。いずれも汎用クレジット価格に依存しない構造を持つ点で共通している。英国BNGのNSIPs適用が2026年5月に予定される中、義務需要の裾野がどこまで広がるかが今後3年の分水嶺となる。制度が広がれば供給側の土地確保が先行者利益に変わり、広がらなければ市場はinsettingとMRVという二つのニッチに収斂する。仕込むなら、この分岐が見える前の期間しかない。


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