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ネイチャーポジティブと生物多様性の財務リスク — TNFD・COP15昆明モントリオール枠組みの企業実務

2022年のCOP15で採択された「昆明モントリオール生物多様性枠組(KM-GBF)」の「30×30目標」(2030年までに陸地・海洋の30%を保護区化)と、2023年9月に正式公開されたTNFD v1.0(自然関連財務情報開示タスクフォース)が合流し、生物多様性リスクが企業の財務問題として浮上している。本記事では、ネイチャーポジティブの概念から、TNFDのLEAP手法・企業事例・日本企業への実務的示唆まで解説する。


ネイチャーポジティブとは

「ネイチャーポジティブ(Nature Positive)」とは、2030年までに自然の損失を止めて反転させ、2050年までに完全回復させることを意味する国際目標。KM-GBFのゴールAとして明記。

気候変動(カーボンニュートラル)との違い:

概念 指標 目標 企業への義務化動向
カーボンニュートラル GHG排出量(t-CO₂) 2050年ネットゼロ ISSB S2・GX-ETS義務化
ネイチャーポジティブ 生物多様性の状態(種・生態系・遺伝資源) 2030年「損失の反転」 TNFD(現在任意、義務化検討中)

KM-GBF 30×30目標:企業への影響

2022年12月にカナダ・モントリオールで採択されたKM-GBF(昆明モントリオール生物多様性枠組)の主要ターゲット:

  • 目標3(30×30): 2030年までに陸地・海域の30%を効果的に保護・保全
  • 目標15: 大企業・金融機関は自然への依存・影響・リスクを評価・開示する

企業への実際の影響:
1. 土地利用制限: 30×30で保護区指定された地域では採掘・開発が不可能になる → 鉱業・農業・不動産でのリスク
2. デューデリジェンス義務化の動き: EUは「自然関連デューデリジェンス規制」の検討中(CSRD E4と連動)
3. 投資家のスクリーニング強化: 生物多様性への負の影響が大きい企業をESGスクリーニングで排除する動き


TNFD v1.0の構造

TNFDは2023年9月に正式版(v1.0)を公開。TCFDをベースに「自然」固有の複雑さを加えた構成。

TCFDとの比較

項目 TCFD(気候) TNFD(自然)
対象リスク 気候変動の移行・物理的リスク 生物多様性損失・生態系サービス消失
評価手法 シナリオ分析 LEAP(Locate→Evaluate→Assess→Prepare)
主要指標 GHG排出量(t-CO₂) 面積(ha)・種数・生態系健全性
データ可用性 高い(ETS・国家統計) 低い(地点別・生態系別データ希少)
義務化状況 ISSB S2(日本2027年〜) 現在任意、EU CSRD E4・TNFD義務化検討

TNFDの開示柱

TCFDと同じく「ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標」の4柱構成。


LEAP評価手法

TNFDが推奨するLEAPは、企業の自然関連リスク評価の標準手法。

Step L: Locate(自然との接点の特定)

自社のサプライチェーン・事業拠点が「生物多様性センシティブな地域(生物多様性ホットスポット・保護区・重要生態系)」に接しているかを地図上で特定。

ツール例: WWF Biodiversity Risk Filter、IBAT(統合生物多様性評価ツール)、ENCORE(自然資本への依存・影響の評価ツール)等

Step E: Evaluate(自然への依存と影響の評価)

事業が生態系サービス(水・土壌・受粉・大気浄化等)に依存しているか、および生態系に与えている負の影響を評価。

Step A: Assess(リスクと機会の評価)

生物多様性の損失が自社の財務に与えるリスク(コスト増・資産価値下落・操業停止)と機会(自然ベースの新製品・サービス)を評価。

Step P: Prepare(対応策の策定)

リスクに対する削減策・機会への投資計画を策定し、開示する。


シナリオ分析:生物多様性リスクの業種別財務影響

業種ごとに「どの生態系サービスに依存し、どの経路で財務に効いてくるか」は大きく異なる。以下は依存とリスク経路の整理である(財務影響の大きさは事業構造・立地により大きく変動するため、自社での定量評価が必要)。

業種 生物多様性への主な依存 主なリスク 主な財務影響の経路
農業・食品 受粉サービス・土壌健全性・水 農業生産量低下・原材料調達困難 原材料コスト増・売上減
鉱業・採掘 土地利用・水 保護区拡大による操業停止リスク 座礁資産化・操業停止による減損
建設・不動産 土地・沿岸生態系(防災機能) 洪水増加・海面上昇による資産価値低下 保有資産の評価減・保険料増
製薬・バイオ 生物遺伝資源・自然由来化合物 原料種の絶滅・生物資源へのアクセス制限 R&Dコスト増・新薬開発遅延
観光・レジャー 自然景観・生態系 観光地の魅力低下・来客数減 集客減による売上減
金融・保険 農業・不動産ポートフォリオへの間接影響 担保価値低下・農業融資デフォルト増 与信コスト増・引当金増

重要参考: World Economic Forum (2020) は、世界の付加価値創出額のうち約44兆ドル(世界GDPの約半分)が「自然と生態系サービスに中程度以上依存している」と推計。内訳は自然への依存度が高い産業が15%、中程度に依存する産業が37%で、合計52%にあたる。


先行事例

パイロット企業(TNFD)

TNFDはv1.0の公開に先立ち、フレームワークのベータ版を用いたパイロット・トライアルを世界各地の企業・金融機関とともに実施し、その知見を最終版に反映した。

  • 住友林業: 森林・生物多様性への依存と影響をLEAP手法で評価。熱帯林保全活動のTNFDフレームへの組み込みを実施
  • イオン: サプライチェーン(農産品・水産品)のホットスポットマッピングを実施
  • 三菱UFJフィナンシャル・グループ: 融資ポートフォリオの生物多様性リスク評価を開始

複雑性と限界

「生物多様性リスクは測定が難しすぎて、企業開示に馴染まない」

TCFDと同様、「データが揃ってから」開示するのではなく「現状のデータで最善の評価を行い、改善計画を示す」アプローチがTNFDでは推奨されている。「情報が不完全であること自体を開示する」ことも認められており、完璧なデータを待つ必要はない。

「生物多様性はTCFD/ISSBで既に対応しているNature-related Risks(ISSB S1一般概念)でカバーされる」

ISSB S1は気候以外の「重要なサステナビリティリスク」を含むが、「生物多様性の具体的な開示要件」はS1の範囲に留まっており、TNFDの詳細さには遠く及ばない。特に「LEAP評価手法・地域ごとのホットスポット特定・種・面積での報告」はTNFD固有の要件。


日本への示唆

日本は「生物多様性条約COP10(2010年名古屋)」のホスト国として愛知目標の採択を主導した経緯があり、その後継枠組であるKM-GBF(COP15で採択。議長国は中国、開催地はカナダ・モントリオール)の実施においても、国内制度整備の面で積極的な役割を担っている。

環境省は「生物多様性国家戦略2023-2030」でネイチャーポジティブの実現を掲げ、企業による自然関連情報の開示を後押ししている。特に:
農業・食品業界: 生態系サービス依存が高く、TNFD開示の「早期採用」が経営品質の差別化になる
商社・不動産: サプライチェーンの熱帯林・生物多様性ホットスポットとの接触が多く、リスク評価が急務
金融機関: TNFDベースの「自然関連リスクスクリーニング」が投融資判断の新基準になりつつある


まとめ

  • 生物多様性は「環境CSR」から「財務リスク」へ移行した: KM-GBFの30×30目標とTNFD v1.0が合流したことで、保護区拡大による操業制限・原材料調達難・担保価値下落といった形で、生物多様性が損益計算書・貸借対照表に直結する論点になった。実務担当者はまずCSR部門ではなくリスク管理部門の議題として位置づけ直すこと。
  • 着手点はLEAPの「L(Locate)」一択: 全社網羅を目指さず、主要拠点とサプライチェーン上位拠点が生物多様性センシティブ地域と重なるかを地図上で確認する作業から始める。WWF Biodiversity Risk FilterやIBAT、ENCOREなど無償・低コストのツールで初期スクリーニングは十分可能。
  • データ不足は着手しない理由にならない: TNFDは「現状のデータで最善の評価を行い、不完全性そのものも開示する」アプローチを認めている。完璧なデータを待つ姿勢は、開示の遅れという形で投資家評価のリスクになる。
  • 業種によってリスクの入り口が違う: 農業・食品は生態系サービス依存、鉱業・不動産は土地利用制限、金融はポートフォリオ経由の間接影響が主な入り口。自社の業種特性に応じて評価の優先順位を組み替えること。
  • TNFDとESRS E4は一体で設計する: EU事業がある企業は、TNFDのLEAP評価とCSRD/ESRS E4の重要性評価を別々に走らせず、同一のデータ基盤・同一の重要課題リストで統合すること。二重作業の回避が実務負荷を大きく左右する。

主要出典

  1. TNFD (2023)Recommendations of the Taskforce on Nature-related Financial Disclosures (v1.0). https://tnfd.global/recommendations-of-the-tnfd/
  2. Convention on Biological Diversity (2022)Kunming-Montreal Global Biodiversity Framework (KM-GBF). https://www.cbd.int/gbf
  3. World Economic Forum (2020)Nature Risk Rising: Why the Crisis Engulfing Nature Matters for Business and the Economy. https://www3.weforum.org/docs/WEF_New_Nature_Economy_Report_2020.pdf
  4. EFRAG (2023)ESRS E4: Biodiversity and Ecosystems(欧州サステナビリティ報告基準の一部として2023年7月に委任規則として採択). https://www.efrag.org
  5. IPBES (2019)Global Assessment Report on Biodiversity and Ecosystem Services. https://ipbes.net/global-assessment
  6. WWF (2022)Living Planet Report 2022: Building a Nature-positive Society. https://www.worldwildlife.org/pages/living-planet-report-2022
  7. TNFD (2023)Additional Guidance for Financial Institutions. https://tnfd.global/guidance/financial-institutions/

本記事はTNFD v1.0(2023年9月)・KM-GBF(2022年12月)・ESRS E4(2023年7月採択)に基づきます。

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