2025年10月、国際銀行連合NZBA(ネット・ゼロ・バンキング・アライアンス)は事実上の閉鎖を宣言した。JPモルガン・ゴールドマン・サックスをはじめ複数の大手行が相次ぎ脱退した末の幕引きだった。しかし同年12月、ISSBはIFRS S2(気候変動開示基準)の目標改正(targeted amendments)を公表し、銀行のファイナンスド・エミッション(融資・投資先の排出量)の開示範囲を一部明確化・合理化した。「脱炭素金融は後退している」——そう読む向きもある。だが現実は逆だ。PCAF(金融業界GHG会計パートナーシップ)のスタンダード第3版(2025年12月)は10資産クラスに拡張され、世界100か国以上・450以上の金融機関がPCAFに署名している(三菱UFJ・みずほ・三井住友の三大メガバンクも含む)。枠組みは変わりつつあるが、ファイナンスド・エミッションの算定・開示は加速しており、止まることはない。
Scope 3カテゴリ15とは何か:金融機関排出量の95%を占める「隠れた排出源」
GHGプロトコルのScope 3カテゴリ15「投資(Investments)」は、金融機関が融資・出資・債券引受等を通じて間接的に引き起こす温室効果ガス排出量を指す。銀行・資産運用会社・保険会社にとって、Scope 3排出量全体の90〜95%以上がこのカテゴリ15に集中する事例が報告されており(出典:GHGプロトコル Cat.15技術ガイダンス)、事業モデルによって比率は異なる。
つまり、銀行が本当の意味での「脱炭素」を語るには、自社の建物・データセンター・出張(Scope 1/2)を削減するだけでは全く意味がない。融資先・投資先がどれだけの炭素を排出しているか——これが金融機関の実質的な気候リスクであり、同時に最も把握が難しい数字でもある。
PCAFスタンダード:ファイナンスド・エミッション算定の事実上の国際標準
PCAFが策定する「金融業界向けGHG会計・報告グローバルスタンダード」は、世界100か国以上の450機関が署名する国際イニシアティブだ。ISSBのIFRS S2もPCAFを「利用可能な最良の手法」として事実上公認しており、「どう義務付けるか」(IFRS S2)と「どう算定するか」(PCAF)は補完関係にある(出典:CDP-PCAF整合ガイド)。
算定の基本式
すべての資産クラスに共通する基本算定式は以下の通りだ。
ファイナンスド排出量 = 投融資先の排出量 × 帰属係数(Attribution Factor)
帰属係数は「自社の融資額(または株式時価総額)÷ 投融資先の企業価値(または総資本)」で計算する。1社への融資残高が大きいほど、その企業の排出量の多くが自社のポートフォリオ排出量として計上される仕組みだ。
資産クラス別の帰属係数と算定方法
| 資産クラス | 帰属係数の分母 | 主なデータソース |
|---|---|---|
| 上場株式・社債 | EVIC(企業価値+現預金) | CDP開示、有価証券報告書 |
| ビジネスローン・非上場株式 | 総資本(純資産+有利子負債) | 借入企業の財務諸表 |
| プロジェクトファイナンス | プロジェクト総資産 | 事業計画書、監査済財務諸表 |
| 商業用不動産 | 物件評価額 | エネルギー使用量実績、省エネ法届出 |
| 住宅ローン | 物件評価額 | 建物エネルギー性能証書(BEI等) |
| 自動車ローン | 車両台数 | 燃費データ、走行距離統計 |
非上場中小企業ローンの算定具体例
実務で最も困難なのが非上場中小企業向けローンだ。具体的な手順は以下の通り。
例:製造業中小企業への融資残高100億円、当該企業の総資本500億円、Scope1+2排出量5万tCO₂e
- 帰属係数 = 100億 ÷ 500億 = 0.2
- ファイナンスド排出量 = 0.2 × 5万t = 1万tCO₂e
問題は排出量5万tCO₂eというデータをどこから取るかだ。多くの中小企業はGHG排出量を算定・開示していないため、業種・地域の平均排出原単位(売上高あたりtCO₂e等)を使った代替推計に頼らざるを得ない(出典:Pulsora — PCAF Complete Guide)。
データ品質スコア(1〜5):「出発点」と「目標」の地図
PCAFはデータ信頼性を5段階で評価することを義務付けており、開示時に資産クラスごとの加重平均スコアを報告する必要がある。
| スコア | データ品質 | 定義 |
|---|---|---|
| 1(最高) | 検証済み報告値 | 第三者検証を取得した投融資先の自己申告排出量 |
| 2 | 報告値(未検証) | GHGプロトコル準拠の自己申告排出量(保証なし) |
| 3 | 推計値(詳細) | 活動データ(エネルギー消費量等)からの算定推計値 |
| 4 | 推計値(粗い) | 財務データと業種排出原単位による経済集約度ベース推計 |
| 5(最低) | セクター平均値 | 地域・業種平均のみを用いた推計(借入先個別データなし) |
日本の金融機関の多くは、現時点でポートフォリオの大半がスコア4〜5だ。これは恥ずかしいことではなく、データ整備の「出発点」として許容されている。ただしPCAFは毎年「スコア改善計画(ロードマップ)」を開示することを推奨しており、「永遠に5でいい」わけではない(出典:StepChange — PCAF Data Quality)。
PCAF第3版(2025年12月):10資産クラスへの拡張と新指標
2025年12月に公表されたPCAFスタンダード第3版は、初版(2020年)から大幅に拡張された。従来の6資産クラスに以下の4つが追加され、合計10資産クラスとなった(出典:ESG News — PCAF Third Edition)。
- 使途特定型ファイナンス(Use of Proceeds):グリーンボンド・サステナビリティリンクローン等、資金使途が特定されたファイナンス
- 証券化・ストラクチャード商品:ABS・CLO等の複合的プール型資産
- サブ・ソブリン債:地方政府・地方公共団体向け債券
- 未実行ローンコミットメント(任意):IFRS S2との整合として任意開示オプション追加
また新規報告指標として「ファイナンスド回避排出量(Financed Avoided Emissions)」が推奨指標に加わった。再生可能エネルギーや省エネ投資を通じた排出回避量を「ポジティブな貢献」として測定・開示できる仕組みで、単に「いくら排出しているか」を報告するだけでなく「いくら排出を回避したか」も示せるようになる。
日本の金融機関:PCAF Japan26機関と三大メガバンクの目標設定
PCAFジャパンは2021年11月に設立され、2024年12月時点で26機関が署名している(出典:PCAF Japan年次報告)。初期6メンバーはみずほFG・三菱UFJ・三井住友・住友生命・野村アセット・ニッセイアセットで、その後に地銀・中堅行も加盟した。
三大メガバンクの目標設定状況
| 金融機関 | 目標設定セクター | 代表的な目標 |
|---|---|---|
| 三菱UFJ(MUFG) | 電力、石油ガス、石炭、自動車、航空等 | 投融資ポートフォリオで2050年ネットゼロ |
| みずほFG | 7セクター(電力、石油ガス、石炭、自動車、海運、鉄鋼、不動産) | 電力の排出原単位を2030年に230gCO₂e/kWh以下 |
| 三井住友FG | NZBAガイドライン準拠で目標設定を進行中 | 2050年ネットゼロを宣言 |
MUFGは2024年度データブックで投融資残高60.3兆円について業種別ポートフォリオカーボンを開示済み(エネルギー8.0兆円、素材・建築物28.3兆円等)。みずほは電力セクターの排出原単位がFY2021の353gCO₂e/kWhからFY2022に一時悪化(368g)した事実も正直に開示した(出典:みずほ気候・自然レポート2024)。なお「PCAF署名」はPCAFスタンダードの適用宣言であり、すべての資産クラスの開示が即座に完了することを意味するわけではない。各行のロードマップに沿った段階的な充足が標準的な進め方だ。「目標が良ければ良し」ではなく、実績も開示するという誠実さが機関投資家の評価を高める。
2025年末の地殻変動:NZBA解体とIFRS S2緩和
NZBAの解体(2025年10月)
2025年10月、NZBAは加盟銀行の投票によってメンバーシップ型アライアンスの解体を決定した。しかし「フレームワーク」としての気候目標設定ガイダンスは維持される(出典:Trellis — NZBA Closure)。実務担当者への影響は「NZBAへの報告義務がなくなる」のみであり、PCAFへの署名義務・ファイナンスド・エミッション開示の社会的期待は変わらない。NZBAがなくなっても、GFANZ・PCAF・ISSB S2の三本柱は依然として有効だ。
ISSB IFRS S2改正(2025年12月):銀行にとっての実務的緩和
ISSBは2025年12月、IFRS S2の重要な改正を発表した。金融機関にとって最も重要な変更点は以下の通りだ(出典:IFRS — S2改正公式発表)。
- カテゴリ15はファイナンスド排出量のみ必須:銀行の融資・投資残高に紐づく排出量のみを必須開示。
- ファシリテッド排出量は除外:投資銀行業務(M&Aアドバイザリー・ECM/DCMの引受等)は開示義務外。
- 保険引受関連排出量も除外:保険・再保険引受に伴う排出量は任意開示扱い。
- デリバティブは除外可能:排出量計算上デリバティブを除外することを認容。
「緩和」という言葉が独り歩きしているが、融資・投資ポートフォリオのファイナンスド・エミッション(最もデータ量が多く重要な部分)は引き続き必須要件だ。2027年1月以降開始の報告期間からの義務化という基本線も変わっていない。
データギャップへの対処:現実的なロードマップ
世界の融資・投資残高の60〜70%を占めるSME・非上場企業・新興国借入人は排出量を開示していない。これが多くの金融機関でデータ品質スコア4〜5が大半を占める構造的理由だ。現実的な改善ロードマップは以下の優先順位で組む。
- 大口先のエンゲージメント(最優先):ポートフォリオ排出量の上位20先(融資残高上位)は全体排出量の50〜70%を占めることが多い。この20先に対して直接エンゲージメントを行い、GHGインベントリ開示を要請するだけで、データ品質スコアが大幅に改善する。
- 業種別代替推計モデルの整備(次に優先):非上場中小企業向けには、業種別・地域別の排出原単位(売上高あたりtCO₂e)を社内データベースとして整備。MSCI、Trucost、Sustainalyticsの推計データ(上場企業向け)を補完活用する。
- PCAF第3版対応(2026年以降):Use of Proceeds(グリーンボンド・SLL等)の新資産クラスへの対応方針を決定。証券化商品のファイナンスド・エミッション算定方法も整理が必要。
- 環境省ガイダンスとの整合確認:環境省「ポートフォリオ・カーボン分析ガイダンス」(2024年3月)はPCAFと国内規制の橋渡し文書として参照する(出典:環境省 ポートフォリオ・カーボン分析ガイダンス)。
まとめ
- 金融機関のScope 3排出量は90〜95%以上がカテゴリ15(投資)に集中する。自社のScope 1/2削減だけでなく、融資・投資先の排出量把握を最優先の実務課題として位置づける。
- 「ファイナンスド排出量 = 投融資先の排出量 × 帰属係数」の基本式を理解し、上場株式・ビジネスローン・不動産など資産クラスごとに分母(EVIC・総資本・物件評価額等)とデータソースを整理する。
- データ品質スコア4〜5からの出発は許容されるが、毎年のスコア改善ロードマップ開示が前提。まずは融資残高上位20先へのエンゲージメントとGHGインベントリ開示要請でスコアを底上げする。
- 非上場中小企業向けには業種別・地域別の排出原単位を社内データベース化し、代替推計の精度を段階的に高める。
- IFRS S2改正により融資・投資ポートフォリオのファイナンスド排出量は2027年1月以降の報告期間から必須。PCAF第3版の新資産クラス対応と環境省ガイダンスとの整合を早期に確認する。
参考文献
- PCAF Global Standard Third Edition(2025年12月)
- PCAF Japan年次報告プレスリリース
- GHGプロトコル — Scope 3 Category 15技術ガイダンス
- IFRS — IFRS S2改正(2025年12月)
- ESG News — ISSB Eases Financed Emissions Rules
- ESG News — PCAF Third Edition Expansion
- MUFG — Climate Report 2024
- みずほ — Climate Nature Report 2024
- GFANZ — Japan Country Chapter設置発表
- Trellis — NZBA Closure
- CDP-PCAF整合ガイド
- 環境省 — ポートフォリオ・カーボン分析ガイダンス(2024年3月)
- StepChange — How Data Quality Works Under PCAF