分析記事 測定・MRV

自然関連の指標をどう証明するか — 環境DNA・衛星による生物多様性の測定と検証の現状

(本稿の情報は2026年10月時点)

この記事の結論

  • 自然関連指標には CO2 換算トンに相当する共通単位が存在せず、単一指標への収束は制度側でも起きていない。
  • TNFD・SBTN が企業に求めているのは指標値の精度ではなく、どこを測るかの判断根拠と測定方法の開示である。
  • 保証市場が未成熟な段階では、測定手順の完全開示・同一手法の継続・変更時の再計算が事実上の証明の代替になる。

「自然の共通単位」が存在しないという出発点

気候領域の算定実務が機能している理由は、技術的な測定精度ではない。メタンを 1 トン排出しても、HFC を 1 キログラム漏洩させても、GWP という換算係数で CO2 換算トンという単一のスカラーに落ちる。この換算があるからこそ、サプライヤーの排出量と自社の排出量を足し算でき、削減量をクレジットとして取引でき、企業間で比較できる。

生物多様性にはこれがない。しかも「まだ無い」のではなく、構造的に作りにくい。種の多様性、生態系の面積と質、生態系機能(受粉、水の浄化、炭素固定)の 3 層は独立に動く。単一種のプランテーションは樹冠被覆率では高得点を取るが、種の多様性ではほぼゼロである。逆に里山のような人為的攪乱下の二次林は、種数では高いのに原生状態を参照点とする評価では低く出る。北海道の湿原 1 ヘクタールの喪失とインドネシアの泥炭地 1 ヘクタールの喪失を、同じ単位で足すことに生態学的な意味はない。場所ごとに失われるものが違うからだ。

その結果、指標群は収束せずに並立している。

指標 測っている損失概念 空間的な単位 主な用途 企業の自社測定可能性
MSA(Mean Species Abundance) 原生状態に対する種の個体数の残存率 国・バイオーム単位の係数 LCA 的な足跡算定(GLOBIO 系) 不可(係数テーブル依存)
PDF(Potentially Disappeared Fraction) 面積・時間当たりの種の消失割合 地域係数 LCIA(ReCiPe 等)での影響評価 不可(係数テーブル依存)
STAR(Species Threat Abatement and Restoration) 絶滅リスク低減への寄与度 IUCN レッドリストの生息域データの解像度に依存 目標設定・優先地域の特定 一部(IUCN データ参照)
生息地面積 × 質 生息地の物理的な量と状態 現地調査または衛星の解像度 TNFD 中核指標の陸・淡水・海洋利用変化 可能
種組成(環境 DNA 等) 実際に検出された分類群の構成 サンプル採取点 現地のベースライン把握 可能

出典:MSA は GLOBIO、PDF は ReCiPe、STAR は IUCN、生息地面積×質は TNFD の各定義に基づき Climate tech news(CTJPN)が整理

この表が示しているのは、選択の問題ではない。MSA と生息地面積は別のものを測っているので、どちらが正しいかという問いが成立しない。開示担当者にとっての実務的な帰結はここで決まる。問題は「正しい指標を選ぶ」ことから「選んだ指標の正当性を説明する」ことに移る。前者は専門家に委託できるが、後者は委託できない。説明責任は開示主体に残る。

TNFD が企業に求めている「証明」の水準

TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)の開示提言は、気候の TCFD と同じ 4 柱(ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標)を踏襲しているが、指標の扱いが決定的に違う。気候には Scope 1/2/3 という算定境界の定型がある。自然にはない。代わりに TNFD は LEAP アプローチを置いた。L は Locate your interface with nature、つまり自然との接点がどこにあるかの特定であり、E は Evaluate(依存と影響の評価)、A は Assess(リスクと機会の評価)、P は Prepare(対応と報告の準備)と続く。最初の L、すなわち接点の所在を特定する判断そのものが開示対象になっている点が、気候の枠組みとの最大の違いだ。

これは制度設計として意図的である。自然への依存と影響は立地で決まる。水ストレス地域の工場と水豊富地域の同型工場では、同じ取水量が全く違う意味を持つ。だから TNFD は priority location(優先地域)の特定とその特定根拠の開示を求め、そこでの中核グローバル開示指標の報告を求める。中核指標は陸・淡水・海洋の利用変化、汚染/汚染除去、資源利用、侵略的外来種、生態系の状態といったカテゴリで構成されており、単一の総合スコアではない。指標値がどれだけ正確かという問いの前に、なぜその場所を選んだかという問いが来る。

SBTN(Science Based Targets Network)の目標設定手続きも同じ構造を持つ。Step 1 Assess、Step 2 Interpret & Prioritize を経て、Step 3 Measure, Set & Disclose で測定と目標設定を行い、Step 4 Act、Step 5 Track と続く 5 ステップである。測定が独立した初手ではなく、優先順位付けの後に置かれていることに意味がある。ベースライン測定が要求されるのは優先地域に絞られた後であり、全拠点の均一な定量化は求められていない。要求されているのは、優先順位付けの手続きが追跡可能であることだ。

ここに収益化・資本市場評価との接点がある。現行の枠組みが要求しているのは「指標値の正確さ」ではなく「測定方法とその一貫性の開示」である。この違いは実務コストの配分を変える。精度を上げるために測定点を増やす投資より、手順書を整備して同じ方法を 5 年続ける運用のほうが、開示の価値に直結する。投資家が読めるのは数値の絶対水準ではなく、その推移だからだ。仮に MSA 値が 0.72 と単年度で報告されたとしても、解釈の足場がない。同一手法で測った 3 年分の推移には、方向性という情報がある。

環境 DNA — 何が測れて、何が測れないか

環境 DNA(eDNA)は、水や土壌に放出された生物由来の DNA 断片を回収し、メタバーコーディングで分類群を同定する手法である。国内河川の魚類相を対象とした研究では、MiFish 系プライマーを用いて 1 リットル規模の採水から数十種が検出された報告がある。ただし検出種数は水系・季節・流量条件・プライマー設計に強く依存し、一般的な到達水準として語れる段階ではない。国内でも受託分析サービスが複数事業者から提供されている。従来の捕獲調査と比べた優位は、専門家の同定技能への依存が小さく、同一地点の反復測定が現地調査より現実的なコスト帯で回ることにある。

制約は原理的なものと手続き的なものに分かれる。原理的な制約は 3 つある。検出は「その DNA がそこにあった」ことの証拠であって、「その個体がそこにいる」証拠ではない。上流で死んだ個体の DNA が下流で検出されることは普通に起こる。次に、不検出は不在の証拠にならない。DNA 濃度が検出限界を下回っただけの可能性が常に残る。そして定量性が弱い。読み取り配列数(リード数)は個体数や生物量と単調な関係を持たず、種ごとの DNA 放出率・プライマーの増幅効率の差に支配される。

手続き的な制約はもっと厄介で、同じ場所の同じ水を測っても、ラボが違えば結果が違う。

ワークフロー段階 ばらつきの要因 結果への影響 開示での対処
採水・採土 採取深度、時刻、流量条件、採取量 検出種数が大きく変動 採取プロトコルの文書化と固定
ろ過・保存 フィルター孔径、ろ過量、固定方法、保存温度 DNA の分解度が変わる 使用資材の型番まで記録
抽出 キットの違い、阻害物質の除去工程 収量と阻害の程度が変わる 抽出キットの固定
PCR 増幅 プライマー設計、サイクル数、反復数 検出される分類群の範囲が変わる プライマー配列の明記
配列解読 シーケンサー機種、深度 希少種の検出可否 解読深度の開示
参照データベース 登録配列の網羅率、同定の閾値 同定精度と未同定率 使用 DB 名とバージョン
バイオインフォマティクス ノイズ除去アルゴリズム、クラスタリング閾値 検出種数が変わる 解析パイプラインとパラメータ

出典:環境 DNA 学会『環境 DNA 調査・実験マニュアル』が示すワークフロー段階に基づき Climate tech news(CTJPN)が整理

この表の右列が、実務上の答えになっている。各段階のばらつきを消すことはできない。できるのは、自社の選択を固定して記録することだ。解析パラメータの設定次第で検出種数が動く領域で、絶対値の正確さを主張するのは危険である。主張できるのは、同じパイプラインで測った同じ地点の経年変化だ。

国内の標準化については、環境 DNA 学会が採水からバイオインフォマティクス処理までを対象とした『環境 DNA 調査・実験マニュアル』を公開しており、実務上はこれが事実上の参照点になっている。公共水域での適用事例も蓄積しつつある。ただしこれは推奨手順であって、監査可能な単一の規格として確立したものではない。手順を選ぶ裁量が企業側に残る以上、どの版のどの手順に従ったかを開示に書き残す以外に、第三者が妥当性を判断する材料はない。

衛星・リモートセンシング — 面で測る強みと、生物多様性への翻訳ギャップ

衛星観測は eDNA と正反対の性質を持つ。測れるのは地表の物理的な状態であり、生物そのものではない。光学センサー(Sentinel-2 の 10m、Landsat の 30m、Pléiades Neo や WorldView Legion といった商用の 0.3〜0.5m 級)は土地被覆と植生指数を、SAR(Sentinel-1、ALOS-2)は雲を透過して森林の構造変化と地表水を、ハイパースペクトルは植生の生理状態と一部の樹種を捉える。これらから導けるのは、森林減少面積、生息地の分断度、樹冠の高さと構造、湿地の水位変動といった量である。

林床の下草、土壌動物、水中の魚類、地下水生物は原理的に見えない。だから衛星データから生物多様性を語るときには必ず翻訳が入る。「生息地面積が 12% 減った」から「生物多様性が 12% 失われた」への飛躍は、生息地と種数の関係式(種数面積関係)という生態学的モデルを経由する。モデルの係数は生態系タイプごとに違い、断片化の効果は面積の効果と非線形に重なる。この翻訳の不確実性は、衛星データ自体の観測誤差よりはるかに大きい。

それでも、開示の文脈では衛星が決定的な優位を持つ。

観点 環境 DNA 衛星・リモートセンシング
測定対象 種組成(分類群の在) 生息地の面積・構造・被覆変化
空間カバレッジ 採取点のみ(点) 事業地全域・サプライチェーン上流(面)
過去への遡及 不可(過去の水は採れない) 可能(Landsat は 1972 年以降、現行手法に接続できる土地被覆比較は Landsat 5 の 1984 年以降)
第三者による再現 不可(同じサンプルが存在しない) 可能(同じ公開データを再解析できる)
データ取得コスト サンプル数に比例 公開衛星データは無償、商用は面積課金
主な不確実性の所在 ワークフローのばらつき 物理量から生物多様性への翻訳
検証可能性 低い(プロセス記録に依存) 高い(データと解析手順を公開できる)

出典:ESA(Copernicus Sentinel)、USGS(Landsat)の公表仕様および環境 DNA 学会のマニュアルに基づき Climate tech news(CTJPN)が整理

再現可能性の差が、この比較の核心である。eDNA のサンプルは一度分析すれば消える。ある時点で採った水を、後から第三者が再測定することはできない。残るのは記録だけだ。対して Sentinel-2 の同じシーンは誰でもダウンロードでき、企業が主張する森林減少面積を外部が独立に再計算できる。検証可能性という軸で見れば、精度の低いプロキシのほうが、精度の高い直接測定より強い。開示の目的が「正しい値を伝えること」ではなく「主張の検証可能性を示すこと」であるなら、この順序が実務の優先度を決める。

コスト構造も使い分けを後押しする。Sentinel・Landsat は無償で提供されており、年次の土地被覆変化の追跡なら追加の衛星データ費用はかからない。解析の人件費だけだ。商用の 0.3〜0.5m 級データが必要になるのは、個別の樹木単位の把握や都市内の緑地質の評価といった場面に限られる。面積課金で単価が効くため、優先地域を絞ってから発注する順序が合理的だ。

「検証可能性」は誰が供給するのか — 保証市場の未成熟

温室効果ガス排出量の開示には、ISO 14064-3(GHG 主張の妥当性確認及び検証に関する規格)と ISAE 3410(温室効果ガス報告に対する保証業務の国際基準)という保証実務の足場がある。限定的保証から合理的保証までの水準が定義され、監査法人がそれを提供できる。自然関連指標には、これに相当する検証スキームが整っていない。

現時点で監査法人や認証機関が提供できるのは、プロセスへの限定的保証にとどまる。データ収集の手順が文書化されているか、記録が残っているか、集計に誤りがないかは確認できる。しかし報告された種数そのものの正しさを保証する基準は存在しない。基準がないのは監査側の怠慢ではなく、前提となる測定規格が無いからだ。

保証の水準 現時点で提供可能か できること できないこと
保証なし(自己宣言) — 自社手順での測定と開示 外部への信頼性の担保
プロセスへの限定的保証 提供可能 手順の文書化・記録の存在・集計の整合性の確認 指標値そのものの妥当性の確認
指標値への限定的保証 部分的(土地被覆など物理量に限る) 公開データから再計算できる量の照合 種組成・生態系の質の照合
指標値への合理的保証 提供困難 — 測定規格が無いため判断基準を置けない
クレジットとしての第三者認証 自然関連では限定的 特定方法論下での成果の認証 企業全体の自然フットプリントの認証

出典:保証水準の定義は ISAE 3000(改訂)/ISAE 3410 に基づく。各水準の提供可能性の判定は Climate tech news(CTJPN)の評価

表の第 3 行が、実務の分岐点になっている。衛星由来の物理量は、公開データから第三者が再計算できるため、限定的保証の対象になりうる。eDNA 由来の種組成はならない。保証を取りたい指標から設計するなら、物理量ベースの中核指標を主軸に置き、eDNA は補完的な根拠として位置づける構成が合理的だ。

この状況で企業が取れる戦略は 3 点に絞られる。測定方法を手順書レベルで完全に開示すること。同一手法を年度を越えて継続すること。手法を変える場合は過去分を新手法で再計算し、変更理由を併記すること。この 3 点セットは、気候領域の基準年再計算ルールと同じ発想である。単一指標が存在せず、保証も供給されない領域では、これが事実上の証明の代替として機能する。逆に言えば、毎年測定手法を更新して「より正確になった」と主張する開示は、推移を読めなくするので投資家にとって価値が下がる。

開示の質が資本コストに効く経路

自然関連開示が財務に接続する経路は、現時点では間接的である。クレジット販売のような直接の収益化は、森林・ブルーカーボン等の炭素クレジットに自然共便益を付加する形が主で、生物多様性そのものを単体で取引する市場は、炭素クレジット市場と比べて取引規模が小さい段階にとどまる。

効いているのは評価側だ。ESG 評価機関のスコアリングは開示項目の網羅性を重く見る設計になっており、測定方法の記述が具体的な開示は加点されやすい。自然資本への依存が高いセクター(食品、林業、不動産、飲料)では、水リスクと土地利用リスクが格付けや融資条件の議論に実際に上がる。また、サプライヤー側から見れば、取引先の大企業が TNFD 開示を始めた時点で、優先地域の情報提供要請が降りてくる。そのとき既に測定の手順と履歴がある企業は、要請への対応コストが低い。

次の比較は、国内製造業で国内外に 20〜50 拠点を持ち、公開衛星データによる年 1 回の土地被覆変化解析を外部委託する企業を想定した試算である。測定費用のみを対象とし、開示文書の作成費用・保証報酬は含まない。

シナリオ 測定への年間投資(試算) 開示できる内容 保証の取得可能性 想定される評価側の反応
A: 公開衛星データのみ 解析の委託費のみ 全拠点の土地被覆変化の経年推移 限定的保証が可能 網羅性で加点、深度は不足
B: 衛星+優先地域で eDNA A + 優先地域のサンプル分析費 上記+優先地域の種組成ベースライン 衛星部分のみ保証可能 手続きの妥当性で評価されやすい
C: 全拠点で現地調査 拠点数に比例して大幅増 詳細なベースライン 保証水準は B と変わらない 投資対比の加点が小さい
D: 外部係数(MSA 等)のみ 最小 推計フットプリント値 保証不可 立地固有性の欠落を指摘される

出典:Climate tech news(CTJPN)試算(前提は本文)

投資効率で見れば B が有利である。A は検証可能性が高い代わりに、優先地域での実態把握を欠く。C は測定コストが拠点数に比例して膨らむのに、保証水準は B と変わらない。保証が供給されない領域に測定費を積んでも、評価側には届かない。D は最もコストが低いが、TNFD が求める立地固有性を満たさないため、開示の実質が問われる局面で弱い。リスクの所在は B にもある。優先地域の選定根拠が薄いと、「測りやすい場所だけを測った」という批判に反論できない。選定の手続きを LEAP の Locate フェーズに沿って記録しておくことが、この批判への唯一の防御になる。

課題・反論・代替視点

ここまでの整理に対する最も強い反論は、「方法の開示と継続」が証明の代替になるという主張が、測定の質を問わない免罪符として機能しうるという点だ。粗い手法を一貫して使い続けるだけで開示要件を満たせるなら、精度向上への投資インセンティブが働かない。実際、解析パラメータ次第で検出種数が動く手法を固定したまま前年比の増減を報告することに、どれだけの情報量があるかは疑わしい。この反論は正しい。一貫性の要求は、精度の要求を代替するものではなく、精度が要求できない段階での次善策に過ぎない。

もうひとつの代替視点として、単一指標への収束を諦めるのは早いという立場がある。気候領域でも GWP の確立には長い議論があり、Scope 3 の算定も当初は比較不能と言われていた。自然についても、生息地面積と質を掛け合わせる方式が TNFD 中核指標の中心に据えられたことで、事実上の共通通貨が形成されつつあるという読み方は可能だ。ただしこの読み方には弱点がある。面積 × 質の方式は、質の評価に参照状態(reference state)の設定が必要で、その設定が地域と評価者に依存する。換算係数が物理的に定まる GWP とは、不確実性の構造が違う。

技術側の限界も見落とせない。eDNA の参照データベースは分類群によって網羅率の差が大きく、国内の淡水魚のように整備が進んだ領域と、土壌微生物や無脊椎動物のように未同定配列が多数を占める領域がある。衛星についても、熱帯の常時雲域では光学データの欠測が多く、SAR で補完しても植生構造の推定精度は落ちる。測定技術の到達点を一般化して語ることはできず、対象生態系ごとに何が測れるかを確認する作業は避けられない。

保証市場についても、「未成熟だから無い」のではなく「需要が無いから供給されない」という逆方向の解釈がある。企業側が保証を求めれば基準整備が加速するという見方だ。ただし保証基準の整備には測定規格の確立が前提になるため、需要先行で動かせる範囲は限られる。

日本市場・日本企業への示唆

日本企業にとっての条件は、海外企業とは 3 点で異なる。

まず、生態系の構造が違う。林野庁の森林資源に関する統計では、国土の森林率は約 67% と高く、そのうち人工林が約 4 割を占める。天然林に分類される森林の多くも、薪炭林や採草地としての利用を経た二次林であり、人為的な管理の履歴を前提にした自然が国内の主要な生態系になっている。原生状態を参照点に置く MSA や PDF のような指標体系では、里山や管理された農地の生態系価値が低く評価されやすい。欧州の指標設計をそのまま持ち込むと、国内拠点の自然価値が構造的に過小評価される。TNFD が参照状態の設定を開示主体に委ねている以上、日本の生態系に即した参照点の設定とその根拠開示が、国内企業にとっての実務課題になる。

次に、サプライチェーンの地理が違う。食品・飲料・製紙・木材の国内大手は、原材料調達の相当部分を東南アジア・南米に依存している。優先地域の多くが海外になり、現地での eDNA サンプリングは実施体制の構築から始まる。ここでは公開衛星データによる上流の土地被覆変化の追跡が、コストと実施可能性の両面で現実的な起点になる。海外の農場・林地の森林減少を Sentinel-2 で追跡する作業は、国内から実施できる。

そして、制度の接続点が違う。国内の法定開示の軸はサステナビリティ基準委員会(SSBJ)が 2025 年 3 月に公表したサステナビリティ開示基準であり、その内容は一般開示基準と気候関連開示基準の 2 本立てで、自然・生物多様性を対象とする基準は含まれていない。金融庁の制度整備により、有価証券報告書での適用はプライム市場の時価総額上位区分から段階的に始まる設計になっている。つまり自然関連の開示は、2026 年 10 月時点で法定開示の対象外である。環境省は生物多様性国家戦略 2023-2030 の下で企業の取り組みを促しているが、強制力を持つ枠組みではない。したがって当面の開示動機は、法規制対応ではなく、海外投資家・海外取引先・ESG 評価からの要請になる。この構造は、投資規模を決めるときに効いてくる。法定開示が無い段階で C シナリオ相当の測定投資を行う合理性は乏しく、B シナリオの構成を最小限で立ち上げて履歴を積み始めるほうが、後から来る要請に対して有利なポジションを取れる。

海外事例をそのまま適用できない最大の理由は、欧州の CSRD・ESRS が E4(生物多様性・生態系)として自然関連の開示を基準化しており、測定コストを「コンプライアンス費用」として正当化できる点にある。日本にはこの正当化の枠組みがない。だから国内企業は、測定への支出を資本市場からの評価と調達先からの要請という間接的な便益で説明せざるを得ない。説明の難易度が高いぶん、投資効率の高い構成から始めるほうが現実的だ。

まとめ

自然関連指標の証明可能性という問題は、測定技術の問題ではなく、測定技術の成熟度に制度が追いついていない状態の問題である。環境 DNA は種組成という本質に近い情報を与えるが、ワークフローのばらつきが大きく第三者が再現できない。衛星は生物多様性そのものを見られないが、公開データで誰でも再計算できる。この性質の違いが、開示という文脈では精度の優劣を逆転させる。検証可能性を軸に置けば、粗いプロキシのほうが強い。

保証市場の未成熟は、短期的には変わらない。測定規格が確立しない限り指標値への合理的保証は成立せず、監査法人が提供できるのはプロセスへの限定的保証にとどまる。この空隙を企業側が埋める手段は、測定方法の完全開示・同一手法の継続・変更時の再計算という 3 点に限られる。これは理想的な解決ではない。粗い手法を固定するだけで要件を満たせてしまう構造的な弱さを抱えている。だが単一指標が存在しない段階では、ほかに投資家が読める情報の形がない。

日本企業が置かれた条件は、この判断をさらに実利的にする。法定開示の圧力が無く、二次的自然が主体で、優先地域の多くが海外にある。だとすれば、公開衛星データで全拠点と上流の土地被覆変化を追跡する基盤を先に立て、優先地域を絞ってから環境 DNA を重ねる順序が、投資効率と検証可能性の両面で合理的だ。分水嶺は、指標の精度競争ではなく、測定手順を文書化して経年の履歴を積み始めた企業と、法定化を待って着手しなかった企業のあいだに引かれる。SSBJ 基準の段階適用が進み、自然関連の要請が取引先と投資家の側から降りてくる局面で問われるのは、そのとき何年分の履歴を持っているかである。履歴は後から作れない。

主要出典

  • Taskforce on Nature-related Financial Disclosures(TNFD)「Recommendations of the Taskforce on Nature-related Financial Disclosures」(2023年9月公表)、LEAP アプローチ関連ガイダンス、Core Global Disclosure Metrics 一覧 https://tnfd.global/
  • Science Based Targets Network(SBTN)「Science-based Targets for Nature: Technical Guidance」(Step 1 Assess 〜 Step 5 Track の手続き文書) https://sciencebasedtargetsnetwork.org/
  • 環境 DNA 学会『環境 DNA 調査・実験マニュアル』(採水からバイオインフォマティクス処理までの標準手順) https://ednasociety.org/
  • 環境省「生物多様性国家戦略 2023-2030」(2023年3月31日閣議決定) https://www.env.go.jp/
  • 林野庁「森林・林業白書」および森林資源現況(森林率・人工林面積の統計) https://www.rinya.maff.go.jp/
  • サステナビリティ基準委員会(SSBJ)「サステナビリティ開示ユニバーサル基準」「テーマ別基準第1号 一般開示基準」「テーマ別基準第2号 気候関連開示基準」(2025年3月公表) https://www.ssb-j.jp/
  • 金融庁 サステナビリティ開示制度に関する公表資料(有価証券報告書における適用時期・対象区分) https://www.fsa.go.jp/
  • 国際標準化機構(ISO)「ISO 14064-3 温室効果ガス — 第3部:温室効果ガス主張の妥当性確認及び検証に関する仕様並びに指針」 https://www.iso.org/
  • 国際監査・保証基準審議会(IAASB)「ISAE 3000(改訂)Assurance Engagements Other than Audits or Reviews of Historical Financial Information」「ISAE 3410 Assurance Engagements on Greenhouse Gas Statements」 https://www.iaasb.org/
  • 欧州委員会/EFRAG 企業サステナビリティ報告指令(CSRD)および欧州サステナビリティ報告基準(ESRS)E4「生物多様性・生態系」 https://www.efrag.org/
  • 欧州宇宙機関(ESA)Copernicus Sentinel-1/Sentinel-2 のミッション仕様および無償データ提供方針 https://www.esa.int/
  • 米国地質調査所(USGS)Landsat Missions(センサー仕様、1972年以降のアーカイブとデータ提供方針) https://www.usgs.gov/landsat-missions
  • 国際自然保護連合(IUCN)「Species Threat Abatement and Restoration(STAR)metric」に関する公表資料 https://www.iucn.org/
  • 宇宙航空研究開発機構(JAXA)ALOS-2(PALSAR-2)の観測仕様および森林・森林変化マップ https://www.jaxa.jp/

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