はじめに:SBTiが事実上の「ネット・ゼロ国際標準」になった理由
SBTi(Science Based Targets initiative)は、パリ協定の1.5℃目標に整合した企業の温室効果ガス(GHG)削減目標を検証・認定する国際的なイニシアチブだ。CDP、国連グローバル・コンパクト、WRI(世界資源研究所)、WWF(世界自然保護基金)の連携により運営されており、参加企業は世界で数千社規模に達している。日本でも大手上場企業を中心に参加が広がっており、認定企業数では世界有数の国の一つに数えられる。
SBTiが「事実上の国際標準」と呼ばれる背景には、三つの構造的な理由がある。第一に、機関投資家や格付け機関がESG評価の際にSBTi認定の有無を確認する運用が定着しつつあること。第二に、グローバル大手企業がサプライヤーに対してScope 3削減の一環としてSBTi整合の目標設定を求めるケースが増えており、認定が取引継続の条件になり得ること。第三に、CDP質問書やTCFD/ISSB系の開示フレームワークにおいて、科学的根拠に基づく目標(Science Based Targets)の設定状況が問われる設計になっていることだ。
つまりSBTi対応は、単なる環境活動ではなく、資本市場・サプライチェーン・情報開示の三方向から要請される経営課題として位置づけられている。
1. SBTiの目標設定プロセス — コミットから認定・年次報告まで
SBTiへの参加から目標認定までのプロセスは、大きく以下の4ステップで構成される。
ステップ1:コミット(参加表明)
SBTiに対してコミットメントレターを提出し、科学的根拠に基づく目標を設定する意思を宣言する。コミット後は原則として24カ月以内に目標を提出することが求められ、期限を過ぎると「コミット期限超過」としてウェブサイト上のステータスが変更される。なお、コミットを経ずに直接目標を提出するルートも認められているため、既に排出量算定と削減計画が整っている企業は直接提出を検討してもよい。
ステップ2:目標設定(近期目標と長期目標)
SBTiの目標体系は二層構造だ。
- 近期目標(Near-term targets):基準年から5〜10年程度先を目標年とする削減目標。1.5℃整合の場合、Scope 1・2について年率4%強に相当する直線的削減が求められる。
- 長期目標(Long-term targets):2050年(またはそれ以前)を目標年とし、ネット・ゼロ到達時点の削減水準を定めるもの。
「ネット・ゼロ認定」を得るには、近期目標と長期目標の両方を設定する必要がある。近期目標のみの認定も可能だが、その場合は「ネット・ゼロ目標」を名乗ることはできない点に注意したい。
ステップ3:提出・審査
目標をSBTiに提出し、独立した検証チームによる審査を受ける。審査では、基準年排出量の算定方法(GHGプロトコル準拠)、目標の野心度(1.5℃経路との整合性)、Scope 3のカバー範囲などが確認される。審査には所定の検証費用が発生し、提出から結果通知までは数カ月程度を見込むのが一般的だ。差し戻しとなった場合の再提出期間も考慮し、社内スケジュールには余裕を持たせるべきだ。
なお、従業員数などの条件を満たす中小企業には、簡素化された審査ルート(SME向けルート)が用意されている。
ステップ4:年次報告(進捗開示)
認定後も、毎年の排出量と目標進捗を開示することが求められる。CDP回答や統合報告書・サステナビリティ報告書での開示が一般的な手段だ。また、大規模なM&Aや事業構造の変化、算定方法の変更があった場合には、基準年の再計算(リキャリキュレーション)と目標の再検証が必要になる。目標は一度取れば終わりではなく、定期的な見直しサイクルを前提とした運用体制を組む必要がある。
2. Scope 1・2・3の定義と削減要件
SBTiはGHGプロトコルに基づき、排出量をスコープ別に管理することを求めている。
- Scope 1:自社が直接排出するGHG(燃料燃焼、社有車、製造プロセス、農業由来のメタン・N2O等)
- Scope 2:購入した電力・熱・蒸気の使用に伴う間接排出
- Scope 3:バリューチェーン全体の排出。原材料調達(カテゴリ1)、輸送、出張、販売した製品の使用(カテゴリ11)、廃棄など15カテゴリーに分類される
Scope 1・2の要件
SBTiのネット・ゼロ基準(Corporate Net-Zero Standard)では、Scope 1・2は2050年までに基準年比90%以上の削減が必要となる。Scope 2については、ロケーション基準(系統平均の排出係数)とマーケット基準(契約に基づく排出係数)のいずれかを選択して目標設定でき、再エネ電力調達(再エネ証書・コーポレートPPA等)による削減がマーケット基準で反映される。再エネ調達比率そのものを目標として設定する選択肢も認められている。
Scope 3の要件
Scope 3は、総排出量に占める割合が40%以上の場合に近期目標の設定が必須となる。近期目標ではScope 3排出量の3分の2程度をカバーする目標が、長期目標では9割程度をカバーする目標が求められる。多くの製造業・小売業ではScope 3が総排出量の大半を占めるため、実務上の最大の難所はScope 3の算定精度向上とサプライヤー巻き込みにある。
なお、森林・土地・農業に関連する排出が大きい企業には、FLAG(Forest, Land and Agriculture)と呼ばれる土地セクター別の目標設定ガイダンスが別途適用され、食品・農林業関連企業は通常のエネルギー由来目標と併せてFLAG目標の要否を確認する必要がある。
3. 削減ロードマップの作り方 — 実務の5ステップ
目標認定はスタートラインに過ぎない。実務担当者が直面するのは「どうやって削減経路を実現するか」であり、以下のステップでロードマップを構築するのが定石だ。
ステップ1:排出量インベントリの精緻化
まずGHGプロトコルに準拠した排出量算定基盤を整える。Scope 3は当初、産業連関表ベースの原単位法(金額×排出原単位)で概算し、排出量の大きいカテゴリから順にサプライヤー実測データ(一次データ)への置き換えを進めるのが現実的だ。原単位法のままでは調達先の削減努力が自社のScope 3に反映されないため、一次データ化は削減実感を得るうえでも重要となる。
ステップ2:ホットスポットの特定と施策マッピング
スコープ別・カテゴリ別・拠点別に排出量を分解し、削減インパクトの大きい領域を特定する。そのうえで、省エネ(設備更新・運用改善)、燃料転換(電化・バイオマス・水素等)、再エネ調達(PPA・証書)、製品設計変更、物流効率化、サプライヤーエンゲージメントといった施策を、削減量・コスト・実現時期の三軸で整理した限界削減費用(MAC)カーブ的な優先順位付けを行う。
ステップ3:中間マイルストーンと投資計画への接続
2030年・2040年・2050年の削減水準を逆算し、設備投資サイクル(ボイラー・炉・車両などの更新タイミング)と整合させる。高排出設備は一度導入すると数十年使われるため、「次の更新時に低炭素型を選ばなければ2050年目標に間に合わない」というロックイン問題を投資委員会レベルで共有することが肝要だ。インターナルカーボンプライシング(社内炭素価格)を投資判断に組み込む企業も増えている。
ステップ4:サプライヤーエンゲージメント
Scope 3カテゴリ1の削減は、主要サプライヤーへの排出量開示要請、削減目標設定の働きかけ、共同での省エネ・再エネ導入支援などを通じて進める。SBTiでは、サプライヤーにSBT設定を求めること自体を「サプライヤーエンゲージメント目標」として設定する方式も認められており、一次データが揃わない段階の現実的な打ち手となる。
ステップ5:ガバナンスとモニタリング
削減進捗を経営会議・取締役会に定期報告する体制を敷き、役員報酬とGHG削減KPIを連動させる企業も出てきている。年次報告義務への対応と併せ、算定〜開示のプロセスに内部統制を効かせることが、後述する保証(アシュアランス)対応の布石にもなる。
4. カーボンクレジットの使える場面・使えない場面
SBTiにおけるカーボンクレジットの扱いは明確に定められており、実務上もっとも誤解が多いポイントだ。
使える場面(1):残余排出量の中和(Neutralization)
長期目標を達成した後に残る「どうしても削減できない排出量」(残余排出量、基準年比10%以内)は、大気中からの炭素除去(Carbon Dioxide Removal)によって中和することが求められる。ここで重要なのは、中和に用いるクレジットは「排出回避型」ではなく「除去型」でなければならず、かつ永続性(貯留した炭素が長期間再放出されないこと)が重視される点だ。植林・再生農業などの生物学的除去から、DACCS・BECCSなどの工学的除去まで手段は幅広いが、永続性リスクへの手当て(バッファプールや保険的仕組み)が今後さらに問われる可能性がある。
使える場面(2):BVCM(Beyond Value Chain Mitigation)
BVCMは、自社バリューチェーン外での削減・除去活動への追加的な貢献を指す。SBTiは、削減目標の達成と並行してBVCMに取り組むことを推奨しており、高品質クレジットの購入はその代表的手段だ。BVCMはネット・ゼロ達成の要件ではないが、移行期における地球全体の削減に貢献する行動として、投資家・NGOからの評価対象になりつつある。BVCMを実施する場合は「自社の削減目標達成とは別枠の貢献」であることを開示上明確に区別することが重要だ。
使えない場面:削減目標の代替
Scope 1・2・3の削減目標そのものをクレジット購入で代替することは認められない。「クレジットを買ったから削減しなくてよい」という論理はSBTiでは通用せず、こうした使い方はグリーンウォッシング批判の典型的な引き金にもなる。
なお、SBTiはネット・ゼロ基準の改定作業を進めており、Scope 3対応における環境属性証書や市場メカニズムの位置づけについては議論が続いている。改定内容次第でクレジットの活用余地が変わる可能性があるため、実務担当者は公式発表を継続的にウォッチすべきだ。
5. 農林業由来クレジットとSBTiの接続
農地・森林由来の高品質カーボンクレジット(Nature-based Solutions)は、BVCMの手段として、また除去型であれば残余排出量の中和手段として、SBTiの枠組みに適合し得る。
企業の調達目線では、品質シグナルの有無が選別基準になる。ボランタリークレジット市場では、ICVCM(Integrity Council for the Voluntary Carbon Market)によるCCP(Core Carbon Principles)ラベルが品質の目安として浸透しつつある。国内では、政府が運営するJ-クレジット制度の森林管理・農業由来クレジット(バイオ炭、水田の中干し延長など)が第三者検証を経た国内調達の選択肢となる。J-クレジットのSBTi文脈での位置づけ(除去型か回避型か、永続性要件を満たすか)は方法論ごとに異なり得るため、購入前に用途との整合を確認する必要がある。
農林業プロジェクト事業者側から見れば、SBTi認定企業の「中和需要」と「BVCM需要」は、長期購入契約(オフテイク契約)の交渉窓口となる。企業側は2050年に向けて除去クレジットの調達を計画的に積み上げる必要があるため、供給の見通しと品質(追加性・永続性・MRVの堅牢さ)を示せる事業者には、複数年契約や前払い型の資金供給が成立する余地がある。
6. 日本企業固有の実務論点
日本企業がSBTi対応を進める際は、国内制度との整合も視野に入れたい。SSBJ(サステナビリティ基準委員会)基準に基づくサステナビリティ開示は、時価総額の大きいプライム上場企業から段階的に適用が始まり、Scope 1・2・3の開示と第三者保証への対応が求められていく。また、GX推進法に基づく排出量取引制度(GX-ETS)は一定規模以上の排出企業への参加義務化が予定されており、SBTi目標と国内カーボンプライシングの二重管理が実務に乗ってくる。SBTi向けに整備した算定・ガバナンス基盤は、これら国内制度対応の土台としてそのまま活用できるため、二重投資を避ける設計が肝要だ。
まとめ
SBTiネット・ゼロ目標の核心は「削減ファースト」だ。カーボンクレジットは削減努力を代替するものではなく、削減を最大化した上で残る排出量を中和し(除去型クレジット)、バリューチェーン外の貢献(BVCM)を上積みする手段として機能する。この原則を目標・開示・調達の各場面で一貫して示せるかどうかが、投資家・取引先からの信頼を左右する。実務担当者への具体的なアクションポイントは以下の通りだ。
- 排出量インベントリを先に固める:Scope 1・2の実測とScope 3の全カテゴリ概算をGHGプロトコル準拠で整備し、基準年を確定させる。ここが曖昧なままでは目標提出も審査対応もできない。
- 近期・長期の二層目標を設備投資サイクルと接続する:2030年・2050年の削減水準から逆算し、高排出設備の更新タイミングに低炭素投資を織り込む。ロックイン回避は経営会議マターとして扱う。
- Scope 3はサプライヤーエンゲージメントから着手する:排出量の大きい調達カテゴリを特定し、主要サプライヤーへの開示要請・SBT設定の働きかけを開始する。一次データ化は段階的でよい。
- クレジットは「用途の区別」を明確にして調達する:中和用は除去型・永続性重視、BVCMは削減目標とは別枠の貢献として開示を分ける。ICVCM CCPラベルやJ-クレジットの方法論単位で品質を確認する。
- 基準改定と国内制度の動向を継続ウォッチする:SBTiネット・ゼロ基準の改定議論、SSBJ開示、GX-ETSの義務化スケジュールは実務要件を直接変える。年1回は目標・体制の見直しサイクルを回す。